karina氏の視点(仮題)

光なる闇と闇なる光

> 光なる闇の翼、闇なる光の翼って矛盾してませんか?
> 「なる」は断定の助動詞「なり」の連体形ですから、「光である闇の翼」「闇である光の翼」・・・矛盾っていうか、変ですよね・・・。
> あ、それとも「なり」って存在の方でしょうか?「光にいる闇の翼」「闇にいる光の翼」・・・。
> う〜ん、う〜〜〜ん、結局わかりませんでした。

 えーと、此れは殆どの方が『光と闇は相反する対立元素である』との二元論に基づく考えを持っていらっしゃるかと思うのですが、事実は『光と闇は同じ存在の頭と尻尾』のようなものだったりするのです。
 んー、例えば……とある『明るさが10』の物と、『明るさが5』の物と、『明るさが1』の物を想定してみて下さい。
 『10』から見れば、『5』も『1』も闇ですよね。
 『5』から見れば『10』は光で『1』は闇。
 『1』から見れば『10』も『5』も光になる。
 関係性というのは相対的なものであって、存在の主観から見た意味と言う物は、観察主観と観察対象の関係に因って変動するものなのです。
 で、光と闇ってのは、其々に相反する存在が二つ在るのではなくて、其れは恰も電極のプラスとマイナスのように、とある『流れ』のスタートとゴールとして、一つの存在の裏表として在るのです。
 つまり、『存在』は全て背反する矛盾を含み、己の中に『存在を肯定する』『存在を否定する』の二つを持ち合わせているものなのです。
 逆説的に言えば、絶対的単極主観なるものは存在する事が出来ません。何故なら比較の対象が無い物は定義づける事が出来ないからです。
 それで、ですね。
 デミウルゴス(そしてリト、ファル、ティル、ディー、イリス、その他ネフェ世界の『存在』達)は『存在』が持つ、その両極性……『変化する事』を愁うのです。
 存在が永遠や絶対を求める事は、自己の否定になる。然し、永遠じゃない存在はやがては否定される。
 其れは死と言う意味での絶対的否定かも知れないし、存在するが故の関係性の流動による世界の否定(つまりは愛する者、自分の存在理由とする物の喪失や、それらからの否定)かも知れません。
 ファルは竜の力の代償として、父親や自分の血で救って来た者達の愛を失い、欲望に晒された。
 ティララも信者達の欲望による内乱、そして自分の力では無く、自分の存在を愛してくれたリトの豹変、大切なものを失っている。
 イリスは自分を愛してくれたマスターを失い、カーミラも時の流れに抗えぬ人間の主を無くした。
 存在するが故に苦しみ続ける。
 その存在は因果律に従う事でのみ確約されるものだから、時を司るイリスでさえも時間を戻す事は出来ず、その存在は『存在が勝手に相互を定義する事で関係性を構築する』から、リトは自分が被造物である事を知って、存在の空虚さに悩むし、デミウルゴスは自分が絶対者であるが故に、自己を定義出来ずに悩み苦しむ事になる。
 で、デミウルゴスは…実はカミサマではなくてニンゲンであると自分を定義しています。(種族特性で一番強いのは人間属性なんですよ?)つまり、存在する上で人間の心の中で二分された二律背反への葛藤を其の属性として持っていると言う事です。
 彼の者の翼は、自由に飛ぶ為の翼ではなく、月宮あゆの天使の翼と同じもの…存在を永遠の世界に縛る翼、関係性希薄による自己の不明瞭を意味するものであったりするのです、うぐぅ。
 ネフェの根っこには、ONEの永遠の世界とか、AIRの空夢とか、エヴァンゲリオンのATフィールドや人類補完計画等のネタが存在します。それらの作品の考察を知ってると、ネフェ世界のグノーシスを元にして組み立てられた物語が理解し易くなったりするのです。

冥界以降は本当に「引き返すことは許されぬ」か?

> 冥界の入り口 引き返すことは許されぬ とあるけど
> 進んでいけば漆黒の迷宮からゲートを使って帰れますよ?
> まあ、そこに行くには魔神の集団に勝つ必要があるけど
> 絶対不可能というわけじゃないんだよね

 小燕風さんの掲示板に詳しい考察を載せましたが……要するに、アストラルゲートの法則は冥界の法則よりも上位に位置するって事です。
 冥界の不可逆性因果律はデミウルゴスの世界の中の事ですが、アストラルゲートの空間は時間や空間を超越した、デミウルゴスの法則外の場所なのです。
 言わば…偽りの創造主であるデミウルゴスではなく、真実の創造主TILに仕える、時空の少年…(ディーヴァの物語に登場する少年、人間ではなく、魔神でもない、御使いサバオト)…の領域ですから。
 つまり、現実世界がネフェシエルの世界全てを包括し、ネフェ世界の中もアストラルゲート世界がマテリアルプレーンよりも上位世界として包括してる訳です。
 冥界が戻れないのは、イリスも超えられない『存在の不可逆性、つまりは死んだ人は戻れない、戻ったら因果律が崩壊して関係性が崩壊する…世界がぶっ壊れちゃうから』という意味的結界によるものですから、其れよりも上位の世界法則を利用すれば引き返す事も不可能ではなくなると言う訳です。

守護者達のブースト

> 魔神の姉ちゃんたち(?)ってみんな壺の中の怪物どもをはりたおせばブーストできるようになりますよね?
> ・・・それじゃあ、アスタスファやエローアイオスもブーストできるということは、がんばって壺の中の怪物をはりたおしたということですか?

 まず、召喚の秘術・第二巻の記載を見て下さい。
『問題は、魔神自身にすら自らの本当の姿を制御できないという事である。人間が時として己が何者であるか、理解できないように魔神もまた、自分では理解できないものを内に秘めているのである。』

 ……と記されています。
 更に、ブースト形態とは

『召喚者の意思を無視し、持てる魔力の全てを放出し、破壊の限りを尽くす』

 ……と記されています。

 つまり、ブーストの力とは基本的に『破壊=否定』の力である訳です。

 ファルが覚醒した時は、『父親と、自分が救って来た筈の人々に否定され(力だけが目当てで、自分を誰も愛してくれない)て、世界に絶望した』時です。
 この時は『魂の叫び』で父親の私兵団と、民衆を全部押し流してます。

 ティララが覚醒した時は、『自分と、癒しの力関係無しで自分自身を愛してくれたリトが、自分自身の力だけを目当てとして自分自身の存在を否定した神官軍団百万に囲まれて、プッツン来た』時です。
 この時は『裁き』で地上の殆どの人間を焼き滅ぼしてます。

 ディーヴァはそもそも、『リト失脚後、魔神を使って覇権を争う諸王の騒乱に疲れ果てた人々が、病んだ世界の終わりを願う事で降臨した終末の者の一柱』であるのですから、根本的に世界否定そのものです。
 彼女は『虚来』によって人類全てを根絶やしにし、一度世界は完全に滅んでます。

 然し、言うまでも無くファルは『だっこぎゅーしてくれる父親が大好きだったから、龍になってもその生命を救おうとした』のですから、彼を其の手で殺めてしまった事はむーっちゃくちゃトラウマになってる訳です。

 ティララは言うまでも無く『癒しを願う人々の願いから生まれた魔神』なのですから、幾ら『光』が癒しと破壊の両面を秘めている属性と言っても、誰かを傷付ける事は本意ではないのです。彼女は自分自身の存在意義を癒し(イシュタール)においている為、破壊(アリラト)の側面たる自分自身は人々に否定されるのではないか、と恐れています。

 ディーヴァは無論、ティララの反対に破壊の属性を持って生まれた存在ですが、同時に彼女は『維持する者』とも呼ばれています。
 ディーヴァの世界で彼女が語る言葉『お前は、全てを壊してしまえば自由になれると思った事はあるか?』が、彼女の『維持する者』の属性を端的に表しています。
 創造主は、破壊ではなく、自分の存在意義を知りたいと望んでいる。人々は破壊ではなく、幸せな生活を望んでいる。然し其れが叶わぬが故に、其の状況からの解放を望んだだけで、本当に世界の終わりを望んでいる訳では無い。
 何より……ディーヴァ自身、世界を一度崩壊させても、転生を繰り返すこの世界から解放される事は…そして創造主が本当の意味で救われる事も…無い事を知ってしまっているのです。
 その葛藤が、彼女を維持する者としている訳ですから、彼女は自分の力を制御できず、只荒れ狂うだけの暴威である事を恥じています。

 破壊=否定の力は、其々の魔神にとって『認めたくない、怖い自分自身の一部』なのです。
 Kanonの舞が自分の力の一部を魔物として切り離したのと同様に、彼女達もまた『自分の罪悪感』から、自分の力の一部を…制御できないその力に自分自身の人格の一部を重ね合わせて…切り離してしまっているのです。

 ブースト覚醒は、自分の本当の姿を、全部ひっくるめて受け止めてくれる、器のでっかいマスターを心の支えとして、本当の自分自身と素直に向き合い、受容れる事で可能となる訳です。

 では、破壊をそもそも恐れていない魔神ならどうでしょうか。

 守護者は、その戦闘力に因って、創造主を守護することを存在意義としているのですから、破壊の力は自らと、自らの存在意義たる創造主を否定する者を、更に否定する事で肯定する為の力な訳です。

 従って、彼らは初めから、迷う事無くその『与えられた力』を行使する事が可能な訳です。

魔神の干渉と調停のオーブ

 魔導器『調停の宝珠』とは、魔神の相互干渉を防ぎ、同時に複数の魔神を召喚・使役することを可能とする、魔導王リトが生み出した生涯最高の発明品です。
 其の技術理論には恐らく、『物質世界に於いては同時顕現に因って相互干渉を起す魔神も、精神世界に措いては複数同時に存在可能である』という、アストラルゲート理論が用いられていると思われます。
 さて、その世界法則のメカニズムを理解する上で大事なのは、果たして魔神とは如何なる存在であったのか、という事です。
 魔神を生み出すものは、人間の想いです。
『父親を助けたい』『病から癒されたい』『こんな世界なんて無くなっちゃえ』etc……様々な想いが具現したのが、魔神と呼ばれる存在です。
 さて、この人間の想いですが……。
 人間は、行動を決める時、『何かを行う=それ以外の何かを行わない』という選択をします。
 通常、人間は複数の矛盾する思考を持ち合わせていますが、選択出来る想いは一つだけであるが故に、心の中で葛藤を起す訳です。
 完全に善だけ、悪だけの人間は居ませんし、何かを得るには何かを失う事で成り立つ世界ですから、『何かを得たい』『でも代償を失いたくない』と、同時に複数の感情を持つ訳です。
 場合によっては三つ、四つ、十、二十……。
 そして、健全な人間は、統合する主人格が自分自身の雑多な感情を(その強制統合による反動で、矛盾への葛藤に苦しみつつも)束ねている訳です。だから一貫性が在る行動を取れる訳ですね。
 不健全だと、自分自身がばらばらになって、多重人格になったり、情緒不安定になったりする。

 もうお分かりでしょう。
 魔神の魔法とは、要するに自分の想いを物質世界に具現させる事ですから、精神世界(具現しない想像の中の精神世界)と異なり、物質世界(実際に事象として具現する現実世界)に於いては、基本的に一人のマスターにつき一つの力だけしか同時に行使出来ないのです。
 言わば、想像するだけならどんな可能性も同時に想像の中で存在出来るけど、(三時におやつ食べようか、風呂入ろうか、ゲームしようか)実際に選択出来るのはその中の一つだけ、って事。

 然し、複数の魔神(感情・想い・願望)を強力な力で調停・統率する事は可能であり、其れを可能にするのが他ならぬ調停のオーブという訳です。(全部やりたけど、勉強しないといけないし、という強い意志で、他の願望を統御し、自分の行動を統率人格の選択に向かわせる、みたいな。)

 恐らく、調停のオーブには、ヴェルダディール(ヴェルダンディ)やエターナルメモリー(イリス)同様、強力な統率力を有するだけの高位の魔神が用いられており、バラバラの方向性を持ち、お互いに打ち消しあう力を統御し、同時に用いる為の緩衝・制御装置として機能しているのでしょう。

 となると、主が異なれば複数の魔神が存在しても(その使用者の精神上、)矛盾は生じない訳ですから、相互の力が打ち消されるという事象は起こりえない訳です。

 だから、リトの魔神達と、デミウルゴスの守護者達、及び強き者達は同時に存在出来る訳ですし、イリスが剣を再生する際には、オーブ無しではその目的に他の魔神が助力する事は出来ない、という訳です。

「閉ざされた島」でどうやって酒を作る?

> 酒場に有る酒ですが、何故孤島に酒があるんでしょうか?
> 酒を造るにはビールなら麦が、ワインならブドウがいります。
> しかし!だがしかし!何処に植えてあるのだ!!?
> しかも記憶を無くして流れ着いた奴がワインの製造法とかを覚えていたりするのだろうか?
> 主発酵の方法やオリ引きの感とか・・・・・
> ワインの作り方については下記のHPを参照
> http://www.winespiral.com/entrance/making.html
> 一朝一夕で作れる代物じゃねーな

 麦や葡萄の生産過程はゲーム上で表現されぬだけで、あれだけの人間が生きてる以上、食料生産の仕組みは当然存在するはずです。トイレとかもきっと在るはず。問題は技術です。
 どうもこの世界が今の形になったのは、ディーヴァが暴走して世界を虚来にて破壊し尽くした後の事のようです。
 それ以前の世界の記録…特に魔導王関係の書籍…を読む限りでは、現在の閉ざされた島にリトの王城が存在する地理構成は矛盾する訳で、従って新しい世界は嘗ての世界の要素を持ちつつも、不要な個所を省いて最低限の条件で構築された、一種の閉じた実験空間のようなものと思われます。
 即ち、ある程度成長した状態で人間は転生して来るし、記憶が失われるといっても、言葉などの基本的な記憶は残っている。
 もしかしたら、死者は自分の壷に戻って別の存在に転生する流れの過程も経ていないかも知れない。
 即ち、嘗て人間は死んではデミウルゴスの元へと帰還し、別の過程を辿って無限の進化の中で存在の意味を模索していたが、現在デミウルゴスが悩みの渦中にある為に世界は閉鎖系になっており、リト達は『嘗て世界が滅んだ状態から転生して来た…と言うよりは、世界に帰って来た』ものの、其れは世界の価値を問う最後のチャンスなのであり、此処で死んだ者は『役割』を終える事で再び転生する事は無いのかも知れず、其の最終実験の為に『転生』も『不要な時間』の過程は飛ばされていて、従ってある程度の記憶は嘗ての前世のものを元に、色々とプロテクトを掛けられて残っているのかも知れず、従って『島に流れ着いて記憶を失った』のではなく、『世界の残骸で構成される島の外には何も無く、彼らは単に転生を経て世界に帰還し、然し最後の実験の為に通常の転生とは違う道を辿り、現世と矛盾を生じる…特に成長過程に関する記憶…にプロテクトがかかっている為、擬似的な記憶喪失に陥っている』可能性が高いのではないか。とすれば、醸造の記憶を持っている人間も居るかもしれないし、例え忘却していても、島に残された文献(嘗て此処にも文明があり、また其れを発掘しに来た嘗てのリト王の奴隷の住む区画も存在した)を元に技術を取り戻した者も居るかも知れない。

(記事No.897)

クゥと「死者の書」の関連性

> 暇に甘んじて死者の書のHPを見てました
> そしたらこんな物が・・・・
> http://www.moonover.jp/bekkan/sisya/index-185.htm
> これに出てくるクウは水龍少女がこよなく愛する跳ねる毛玉の元ネタと考えていいのでしょうか?
> それとこの「クウ」はどのような存在なのでしょうか?
> 知っている方、ご解答を頂きたいのですが・・・・・

 古代埃及に措ける人間の組成式。
 『人間』=『ケト(見える物=肉体)』+『シュト(見えない物=霊魂)』
 『シュト(霊魂)』→『カー(霊)』+『バー(魂)』=『アク(神)』
 魂=永遠不滅の超自然的な心、世界の分霊。
 霊=肉体に依存し、個性や自我や人格を持つ精神、肉体を生かす生命力。
 神=魂と霊が天界で結合し、完全体に進化した存在。

 クゥ、というのは、この死者の書のテキストの場合、カー、の別発音ですね。

 因みに、ネフェシエルのクゥは、バオアとセットで、インド神話の幻獣『ア・バオア・クー』から来てます。
 神話では、『勝利の塔』という建物が存在し、其の塔の螺旋階段を屋上まで上れば英知を得て覚醒・解脱出来ると言われています。
 ア・バオア・クーはその一階に住み着く魔物です。
 彼は闇の中に存在し、透明で、常に自分が何物なのかを知りたいと願っています。
 『ワタシハダレダ……ナゼココニイル……イツカラココニイル……ナンノタメノココニイル……』
 時折、塔には人間が訪れて、最上階を目指します。
 ア・バオア・クーは、深き眠りから目覚めると、人間の勇士の踵に喰らい付き、其の影に隠れて一緒に最上階を目指します。
 彼は、光に弱く、闇か影の中でしか棲息出来ないのです。
 光溢れる最上階が近づくに連れ、ア・バオア・クーの身体は次第に輪郭を得て、青白く輝き始めます。
 『オオ……ソウダ……モウスグオモイダス……ワタシガナニモノデアッタノカヲ……』
 然し、勇士達は屋上に辿り付く事無く、地上へと堕ちて行きます。
 ア・バオア・クーは共に地面に叩き付けられ、酷い傷を負います。
 『イタイ……サムイ……クルシイ……ワカラナイ……ナゼ……コンナコトヲシテイル……』
 嘗てこの塔を上りきったのは一人だけでした。
 ア・バオア・クーは、今もあの日の事を覚えています。
 勇士が最上階の扉を開き、ア・バオア・クーが自分自身を知る瞬間。
 ――彼は光に撃たれて、元の暗闇に包まれた一階まで転げ落ちてしまったのです。
 無常にも、勇士一人を飲み込んで、屋上の扉は閉まってしまいました。
 『……ワカラナイ……マタ、ワカラナイ……イツカラコウシテイルノカ……ナンドクリカエシタノカ……』
 そして、また勇士が訪れるのを待ち、彼は何度も自らを知ろうと試みては破れる、其れを永遠に繰り返すのです。
 『ホシイ……ヒカリガホシイ……ワレハ……サミシイ……』

 ネフェ世界の創造主は、絶対存在であるが故に、自らの存在を定義付ける事が出来ません。
 然し、属性が人間である事から分かるように、自らが天然自然を受け入れるのではなく、自らの存在を模索する事を願う、人格神である事が全ての根源でした。
 彼は、自らが何者で、何の為に存在するのかを知る為に、世界創造を行い、自らを相対化したのです。
 自分の写し身である人間を見れば、自分自身を知る事が出来る。
 人間が幸せなら、きっと自分も幸せだと定義付ける事が出来る。
 幸せな人間が創造主たる自分を称えれば、自分の存在は肯定されたものになる。
 きっと、自分は孤独じゃない。きっと、自分は無意味な存在じゃない。
 だって、そうじゃなければ、寂し過ぎるじゃないか……。

 だから、デミウルゴスは世界を作り、自らに模した人間を作り出しました。
 そして、全ての存在の強い願いを叶えてやる為に、世界に魔神システムをも作ったのです。
 (但し、其れは世界構造上どうしてもより強い願いだけを優先させて具現する、不完全極まりないもの…つまり、武力や財力、物理的力と同様に、精神力が強い者がより世界の事象を左右する状況を生み出しただけに留まったのですが……。)
 ……相対的であるという事は、二つの悲劇を生み出します。
 『誰かにとっての幸福が、誰かを不幸にする事がある』。
 『相対的存在は常に影響し合い、変化し、何時かは必ず滅びを迎えてしまう』。
 存在は不幸を生み、時に生まれた幸福も、何時かは終わってしまう。
 そして、デミウルゴスが相対的存在に堕ちた事により、死の呪いという原罪を背負った人間に対する責任を背負わざるを得なくなった事。

 リト、ファル、ティララ、ディーヴァ、イリス、マスター、カーミラ、ルー、図書館姉妹、その親、その他の冒険者達。
 ネフェシエル世界の全ての存在、そして他ならぬデミウルゴス本人さえも縛る原罪は、デミウルゴスの精神を自壊へと追い込みます。

 自分は結局、自分の存在理由を見つけられなかった。
 自分が作り出した存在は、皆不幸になり、滅びの道を辿っていった。
 争いあい、憎みあい、自分自身の存在はつまり、必要ないのか、寧ろ消えてしまった方がいいのか……。

 故に、デミウルゴスもまた、世界の被害者なのです。
 全ての苦しみの根源であり、それ故に全ての苦しみを受けなくてはならない。

 (何処かの我侭で人間の事なんてちっとも考えてない、傲慢なだけの一神教創造主とは大違いです……。)

 バオアとクゥは、そんな造物主デミウルゴスの精神の一部が具現した存在。
 バオアは『神の瞳(ウォッチャー)』であり、常に世界を遍く観察し、自らの存在理由を知ろうとする想い。
 (だから、バオアは瞳の形をしているのです。)
 そして、クゥは、より良い完全な状態を模索する、デミウルゴスの『進化』の方向性の模索。
 (だから、クゥのドロップは多幸感を齎し、個体の能力を引き上げるのですが、同時に幸福への依存性副作用も齎す訳ですし、存在の単体としての完成が同時に物語性の…ゲームバランスの…崩壊も連れて来る訳です。単体で全てである完全状態は、永遠であると同時に、全ての意味が死に絶えた零の世界でもある訳ですから。でっかいクウが魔神達の願いを叶えるのも、孤独に潰れそうなファルをもじゃもじゃで癒してあげるのも、天使だったり悪魔だったり、様々なバリエーションに富んでいるのも、そのくせして本質の形は同じであるのも、デミウルゴスの願いの形がそうであるからなのです。)
 つまり、バオアもクゥも、デミウルゴスの心の欠片達で構成されるネフェ世界の中でも、特にデミウルゴスと繋がりが深い原生生物であると定義付けられる訳です。

 ……これはまぁ、karinaの独自の解釈で、TILメンバーが其処まで考えてそう設定されたかどうかは解りませんが。

 ファルがクゥを抱いて幸せそうに寝ている姿が微笑ましいのは、単なる『萌え』ではなくて、寂しがりの相対的存在達がお互い因り合って、相互の存在を支えあっている、人の幸福の形を象徴しているから……かも知れません。

(記事No.917)

「魔術」と「技」、及び水龍ファルドゥンの特殊性について

> そういえばティララやファルが使う「魔法」とディーヴァが使う「技」の違いって何なんでしょうか?
> 魔力(MP)を消費している以上、自分としては触媒(ディーヴァの持っている武器)を通して「技」という物にしてしまっているのでは?と考えてます。
> それと追加質問なのですが、魔術とは、一般にどのような事をすれば魔術と呼ばれるのでしょうか?

 さて、ではまず最初に『魔法』と『魔術』について説明するところから話を始めたいと思います。
 この二つの良く似た言葉の違いについては昨今の幻想物語でも良く取り上げられたりしてる訳ですが……。

 例えば、月姫の世界観だと『魔術は既に世界に存在する法則を利用する術、魔法はアカシックレコードに接触した術者が自ら世界を書き換えて法則を作り出し、其れを強大な力で世界に一時的にでも認めさせてしまう業』とされています。俗に言う固有結界とか空想具現化の力な訳ですが。
 つまり、魔術は例えば元から世界の側に『こうこうこうすればこーゆー現象が起きる』ってルールが存在し、其れを解明して利用する術なのに対して、魔法は『自分勝手な理屈を作って世界に新しく追加する』訳です。
 魔術が万能でないのに対して、魔法はほぼ術者の特性と能力の上限に左右される以外は何でもありって事。

 他に、オーフェンの世界観だと『魔術とは六つの始祖種族の血を引かない連中が盲信している怪しげな御呪いの類』であり、『魔法とは神々の血によって発現する世界法則に干渉するある種の超越的な、然し当人にとっては極自然に所有している力』という分類になっています。
 つまり、魔術は迷信だったり、実効力のある薬種知識や雨乞い、占いの類であり、魔法は生まれ持っての先天的超能力の一種みたいなものと考えられます。

 まぁ大抵の世界では魔法の方が一段上の扱いになってる訳ですが。
 現実世界では魔術師と魔法使いの違いは、『世界法則を見極めて自分を其れに合わせ、巧く生きていく者』か『世界を曲解し、自分の妄想で歪めて認識する事で、主観的世界で最強無比になる妄想者』とか言われてたり。
 他にも、儀式を用いて術式起動を行う者が魔術師であり、儀式無しで超常の力を行使するのが魔法使いとか。

 ……要するに、諸説あって定まってないのですな、実の所。

 karinaは物事を考察する再に、文字に与えられている意義から考えるのですが、
 魔術、とは魔の術であり、魔法、とは魔の法であると言う事が出来ます。
 魔、とは、実は聖と同じものの反対側面であり、聖の意義的反対語は邪とかでなく俗なのです。
 邪の反対は正であり、悪の反対は善。

 一個ずつ説明しますね。
 これは一般の意味とか法律的な解釈とは違い、所謂本来言葉が持つべき意味の話です。
 まず、善とは『観察主体にとって味方する威力』。悪とは『観察主体にとって敵対する威力』。
 正とは『大衆の側、多数派の側』であり、邪とは『異端の側、少数派の側』。
 俗とは『顕れている物質的な、目に見える側』であり、聖・魔とは『精神的な、見えざる、隠れたる』の意味。
 まぁ、聖と魔は属性的に対極ですが。

 因みに、日本で言う鬼とは本来中国では幽霊みたいな意味なんですが、悪魔も悪霊も竜族も巨人族も全部根源的には似たようなものなんですな。
 鬼とは陰にして隠。つまり見えざる、隠れた、の意味。

 要するに、魔、とは、間、であり、解明されない、見えざる領域の事なのです。
 魔法とは、魔の法則、つまり解明されないながらも世界に確実に存在している法則の事。
 そして魔術とは、その一般には魔とされているものを解明し、従える術なのですな。

 例えば、現代では科学と呼ばれているものや、達人にしか理解出来ない格闘技の気功を用いた奥義、建築の秘術や造船の技、武器の為の鉱石の鍛造、他人を魅了する話術や音楽、占星術の知識、薬の合成法や動物の習性、神様の名前や古の伝説を記録する方法、剣を使って他人を有効に殺伐する技術。
 其れ等を『知らない人』から『知ってる人』を見た場合に限り、彼らは『魔法を知る、魔術使い』であったのです。
 逆にいえば、魔術師や魔法使いにしてみれば其れは極当たり前の知識でしか無い訳ですが。
 真の魔法使いは例えばわざわざ近くの物を取るのに魔法を使わない、というのはつまり、一番有効な自分に出来る方法をとる、無駄に念力に頼るよりも手足で移動して取ったほうが早い、つまり知的な合理主義者であって、特異な存在ではない、って意味合いだった訳です。
 一般に言われているような所謂『まじかるちっくな魔法』は、ごく一部に過ぎない訳ですし、現代人が其の知識や技術を過去の時代で披露すれば、其れは魔法使いになってしまう訳です。
 つまり、技術であり知恵である魔術とは、art、技とも言える訳です。

 さて、ネフェシエル世界の場合は独自の世界設定が存在します。

 そもそも魔神とは、人間の強い『想い』を具現する為に生まれる存在。
 デミウルゴスが人間の想いを満たす事で、人間が自らの存在理由となってくれる(人間が自分を肯定してくれる)事を願って作り出された世界の法則です。
 ……実際には人間の想いが多様である事と、想いの強弱で持てるもの持てざるものが生まれてしまう事、人間の想いが綺麗なものばかりでない事などから、欠陥のあるシステムになってしまった訳ですが。

 例えば、ファルがアドーナを呼び出したのは『父親の生命を救う存在になりたい』という願いから。
 ティララが生まれたのはある男が『病の苦痛を癒してくれる希望の光が欲しい』と願ったから。
 ディーヴァが生まれたのは、魔神を駆使する諸王達がリトの後釜を巡って争い、疲弊した世界に疲れた人間が『こんな世界終わってしまえばいい、もう苦しいのは嫌だ、楽になりたい、自由になりたい』と願ったから。
 カーミラが生まれたのは、嘗てリト軍の侵攻から国家を守った学者青年の『自分と一緒に世界を探求してくれるパートナーが欲しい、自分の好奇心を満たす楽しい魔神が居たらなぁ』との想いから。
 イリスは、嘗て娘を喪ったマスターの『決別出来ぬ過去への想い』から。
 その他の魔神達も、何らかの願いを具現した存在であり、夫々の業と属性としてそれらを身に纏って生まれて来ています。
 例えば、ディーヴァやスクルドは『終末の者』としての存在意義を。
 ティララは『癒しを司る者として、人々の願いに答えつづけねばならない』という業を。
 魔神たちは業を持ち、其れを執行する為の各属性の力を持っています。
 魔法、を使用しているのは魔神というよりも、人間が『想い』を具現した結果が『魔法』として発現し、其の魔法を形にする為に擬人化されて実体化しているのが『魔神』であると言えるでしょう。
 だから、技も魔法も、つまりは『魔神が自らの存在そのものを解放している』と言い換える事が出来ます。
 当然、存在する全ての者は活動限界を持っていますが、魔神は人間種族の想いと共にあるので、人間が滅びるまでは存在が完全に費える事はありません。HPは活動限界までを表す数値です。
 対して、MPは魔神の属性、存在そのものの限界と言えるでしょう。
 想いの加速(ブースト)によって『想い』『事象』そのものになった魔神がMPが尽きると技・魔法の使用不可だけでなく、戦闘不能になるのもそういう理屈からです。
 そして魔神の力(魔神を宿した武器であるヴェルダディールも然り)ではデミウルゴスに勝てないのも、魔神が人間に従属する二次的存在であるからです。
 そういう意味合いでは、人間から(恐らく歴史上初めて完全な魔神になった)ファルドゥンは特殊な魔神と言えます。
 因みに嘗てリトが永遠を求めて魔神に転生する実験を行った末路が、『死ぬシステムが壊れただけで、永遠の苦痛に苛まれる』ゾンビや、『人間としての英知を失う事で、世界と一体化した(但し自我が壊れた)』巨人族として、地下に封印されている訳ですが。
 ファルが能力を拡張できるのは、実の所寧ろ『段階的に封印を解いている』と言った方が正しいかと思います。
 元人間であったファルは、想いとしては『他人に応える、他人依存の存在理由』以外に『人間として当人が存在する、我は在る、の存在理由、つまり人間がデミウルゴスから引き継いだ特性と同じもの』を持っています。
 そして、ファル自身竜であった事で人間種族にいぢめられた過去から本来の能力を封印しているので、封印の理由が『力を拒むから』なのです。もしもファルが自分を守る為の力を欲っした場合、其れをある程度の割合で引き出して、ファルの人間部分が制御する特殊な使い方も可能、という訳ですな。
 他の魔神だと『自分自身の属性を拒む』という事はブーストして魔神としての力を行使する事すべての拒絶に繋がる訳だから。

 ネフェシエルでは人間種族しかデミウルゴスに勝てない、と言われているけれど、実の所魔神『水竜ファルドゥン』に限ってはデミウルゴスに打ち勝てる存在である可能性が高いのですよ。
 というのも、存在限界を認識する事で自らの存在を否定するのは、其れが自由ではない誰かに依存する事で自らの存在意義を確立しようとするから、なのですな。
 然し、例え世界がどうであろうが自分が在りたい、在る、だから在るんだ、と言えるようになる(つまり神を殺しても自らが神として存在出来る人間)ならば、デミウルゴスを倒しても消える事が無い(逆に、そうでない弱い人間は神を殺したとたん自分の存在意義を消失してしまう)という事なので……。
 最後のリトの台詞はデミを救うものである、と同時に、リト本人が神(ネフェシエル、神になった人)になる為の言葉でもある訳ですが。
 ティララやディーヴァが如何に強い心を持って自分を受け入れても、彼女達は『誰かと共に在る為に生まれた』存在なので、其の業を否定出来ない。
 (若しくはブースト体の魔神としての業を放棄すれば、人間として存在出来るのかも知れないけど)。
 ファルの場合は、唯一其れが可能である点で、時を司るイリス以上に特殊な魔神な訳です。

 さて、まとめです。

 技=魔法(魔神としての存在の解放)。
 只、武器を使って繰り出す剣技を、便宜上技、と呼び分けているだけ。

 魔術=魔法を利用する術。

(記事No.917)

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