閉ざされた小さな世界で、青年は三柱の魔神を従えていた。水龍ファルドゥン、女神ティララ、そして闘神ディーヴァ。魔神たちは青年の剣となり、あるいは盾となり、共に島の奥深くに眠る真実を目指していた。
 やがて、古城から抜け道をたどって到着したのは、生者が足を踏み入れることを許されぬ場所であった。――人はそれを“冥界の門”と呼ぶ。



恋せよ、花咲く乙女たち!



「うえぇぇぇん、怖かったよぉぉぉう!」
 太陽が光が燦々と降り注ぐ青空の下で、少女はすさまじいまでの超音波を発しながら泣き叫んでいた。彼女の名前はファル。外見は十二歳程度の子供でしかないが、強大な龍の力を秘めた立派な魔神である。
 しかし、どうやら彼女にとって冥界の門は、とてつもなく怖い場所だったらしい。なにしろ床も壁も至る所のすべてが白骨で構成された、大の男ですら逃げ帰りたくなるほど不気味なダンジョンなのだ。死者の闊歩する黄泉の世界を目の当たりにしては、幼い少女――と言っても実年齢はもっと上のはずだが――が恐慌に陥っても無理はないのかもしれない。ファルの怯え方は尋常なレベルではなく、一人になるのが嫌だと言って壷に戻ることすら拒み、ようやく見つけたアストラルゲートで即座に町にまで戻って来たのだ。なのに、見慣れたはずの穏やかな町の風景ですら、今の彼女の恐怖心を鎮めるには足りないようである。
「ファル、もう大丈夫だって。なっ?」
 そんな彼女を必死に宥めている青年は、リト。三柱の魔神の契約者であり、彼女らの力を使役する権利を持つ、ただ一人の主人(マスター)である。とはいえ、今の状況では単なる保護者にしか見えないのだが。腰の辺りをファルにしっかり捕まえられて、リトは先程から身動き一つすら取れずにいた。青年は困惑と諦念が入り混じった表情で苦々しく笑う。いい加減、この小さな魔神に振り回されるのにも慣れてしまった。しかし、生身の人間である彼にとって、毎度毎度のファルのご機嫌取りは重労働なのである。
「ちょっとファル。怖いのは分かるけど、そろそろ泣き止んだらどうなの?」
 見かねて割り込んで来たのは、同じくリトを主人とし使役される魔神――光の女神ティララだ。冷淡な口調にはあからさまな棘が見え隠れしている。さらには吊り上がった眉が彼女のいら立ちを端的に示していた。不機嫌も露わに腕組みをしながら、ティララはやや威圧的に少女を見下ろしている。
「リトだって迷惑してるじゃないの」
 ティララとしては実を言うと、さっきからリトを占有されているのも気に食わない。ファルが主人である彼に対して、淡い恋心を寄せているのは知っていた。つまり、ティララにとっては間違いなく恋のライバルなのだ。
 しかし、当のファルは反省した様子もなく、きょとんとした表情で光の女神を見上げている。それどころか、ティララの表情から何事かを悟ったらしく、リトの腰に回した腕によりいっそう力を込めたのだ。
「ティララ、もしかしてシットしてるの?」
「ば、馬鹿なこと言わないで」
 ティララは即座に否定したものの、図星を指されて態度に動揺が滲み出している。ただの子供にしか見えないファルだが、他人の心の動きに関しては妙に鋭いところがあるのだ。おまけに、必要以上にリトと密着して、明らかにティララの嫉妬心を煽っている。冥界の門をやたら怖がって見せたのも、リトを絡め取るための演技ではないかと疑いたくなる腹黒さだ。そして、ファルは実に無邪気な笑顔で、とどめの一言を放ったのである。――否、宣戦布告だ。
「リトはちゃあんとセキニン取ってくれるって約束したもん!」
「……責任、ですって?」
 びしぴしっ、とティララの周囲で空気のひび割れる音がした。日頃、積もりに積もった怒りや恨みが、ついに我慢の限界にまで達したのだろう。もう誰にも彼女を止められない。
「って、ファル!? 俺は約束したつもりはな……」
 さすがに身の危険を感じたリトの、とっさの弁解もティララの耳には届いていない。彼女はすでに“慈愛に満ち溢れた癒しの女神”の顔をかなぐり捨てていた。ティララの体から強烈な負のオーラが一気に奔出し始める。常人では傍らにあることすら耐えがたいほど、鋭利で攻撃的な不可視の刃が空間を切り刻んでいった。
「いい加減、堪忍袋の緒が切れたわ。ファル、今日こそ決着を付けるわよ!」
「みい! 受けて立つの!」
 話の流れはなぜか、一対一の決闘にまで発展している。怒り狂ったティララはもちろん、泣いていたはずのファルもやる気満々のようだ。まさに一触即発。二柱の魔神の壮絶なにらみ合いに、リトは頭を抱えてうめくしかなかった。
「お、お前ら……」
「好きにさせてやれば良いだろう。私は先に帰るぞ」
 最後まで傍観者を決め込んだ三柱目の魔神、ディーヴァはまるで無関心のまま道具屋へと向かった。常に冷静沈着な彼女の言う通り、何か口を挟んだところで焼け石に水なのは目に見えている。リトは大仰にため息を吐きながら、小走りにディーヴァの後を追うことにしたのだった。



 名もなき町の中央において、二柱の魔神の壮絶な戦いが幕を開ける。
「は〜い! 実況兼審判兼解説はこの私、カーミラだよ」
 一体いつの間に騒ぎを聞き付けたのか、得意の空間移動でやって来たカーミラが、マイク片手に意気揚々と解説を始めていた。ティララとは浅からぬ因縁を持つ彼女だが、今では島の西側でのんびりと交換所を運営する女性である。今日はどうせ商売にならないだろう、と自分の店も放っぽり出して見物に来たようだ。いかにもお祭り事の好きそうな性格のカーミラらしい。
 樽や木箱を並べて作った即席の闘技場は、酒場で暇を持て余していた冒険者の手によるものだ。彼らの口コミのおかげで、周囲には野次馬がどんどん集まり、かつてない大イベントにまで発展している。
「がんばって下さいませ、ファルさん! 私の暗殺拳を防いだあなたにならきっと勝てますわ!」
「お、お姉ちゃん、恥ずかしいよぉ」
 愛用のトンファーをメガホン代わりに、図書館司書の姉の方・ユーノが声援を送った。対照的に妹のユーナは肩をすくめて縮こまっている。苦労性の彼女は姉の暴走を未然に防ぐために一緒に来たようだ。
「おやおや、うちの店もこれくらい流行ってくれれば良いんだがねぇ」
「じゃあ、わしはあっちの胸の大きなお姉ちゃんを応援するかのう〜」
 武器屋の親父に、骨董品屋の老主人までもが、重い腰を上げて観戦に来ていた。いや、もしかしたら町中のほぼ全員が見物に駆け付けたのではないだろうか。実に暢気なものだ。
「ルールは至ってシンプル! どちらかが負けを認めるまでやり合ってもらいましょう。でも、ブーストはなしだよ! あんたらが本気で戦ったら洒落にならないんだからねぇ」
「……」
 カーミラの冗談交じりの忠告にも、当の本人たちはまったく反応を見せなかった。ファルもティララもひたすら相手を無言でにらみ付けている。周りの無責任なはやし立てなど、今の彼女たちにとっては意味を持たないようだ。これは乙女の意地とプライドをかけた気高い聖戦なのだから。
 思い切り無視されてしまった形のカーミラは、こほん、とわざとらしく咳払いをして気を取り直した。もしかしたら本当に、血で血を洗う壮絶な殺戮劇が始まるのかもしれないと危惧ながら。
「えーっと、でもこの戦い、炎属性に弱いファルちゃんが圧倒的不利だと思われますがー……」
 魔神の特性を知り尽した、カーミラの分析は至極もっともだった。ファルは水底に棲まう龍の化身であり、ティララは火炎系攻撃魔法を得意としている。属性の優位を知っていたティララは、試合が始まる前から自らの勝利を確信していた。しかし、それゆえに驕りと油断があったことは否めないだろう。ファルは自信満々の表情を崩さず、ポケットから何かを取り出して見せた。
「みい! 火・土耐性の装備品に、転倒対策の小さな鈴、おまけに結界護符でカンペキなの〜!」
 おまけに、道具袋からは傷薬やら癒油やら、回復アイテムが次々と出て来るのだ。ファルのあまりの用意周到さに、野次馬たちからはどよめきが起こる。カーミラはカーミラで「結界護符はウチの交換所で、ヘビの鱗三つと交換だよ〜」などと宣伝していた。
「甘いわね、ファル! 私の最強魔法エスレイオンの前に小細工は通用しないわよ!」
 しかし、ティララだけは嘲るような笑みを浮かべている。多少の焦りは見えたものの、どこまでも強気の態度を崩さない。互いに一歩も譲らぬまま、ついに戦いの火蓋が切って落とされた。
「それじゃあ準備はできたね? ――試合開始!!」
 カーミラの開戦宣言と同時に、空中で数個の爆裂玉が弾け飛んだ。派手好みな彼女の仕組んだ荒っぽい演出に、観衆の熱気は早くも最高潮にまで上り詰める。喉張り裂けんばかりの声援がいくつも飛び交った。
「えぇい!」
 ティララが詠唱に入るや否や、ファルがカドゥケウスで雷を落とす。どうやら長い集中を必要とする強力な魔法攻撃を阻止する作戦に出たらしい。いや、それだけではない。自分の弱点と相手の得意技を見極め、最も有効な攻撃手段を常に選定しているのだ、この強かな少女は。
「しょうがないわね!」
 ティララも負けじと剣を抜いて、隙を見ては小さな火炎を投げ付ける。しかし、属性耐性で守られた防具の前には無力であった。長期戦になれば、この勝負どちらに転ぶか分からない。むしろ、アイテムと装備品をしっかり整えた、抜け目のないファルの方に分があるかもしれない。
「二人共、死なない程度に頑張ってねぇ!」
 ただし、カーミラの実況はなんとも緊張感に欠けるものだった。



「はぁ、本当に大丈夫なのか、あの二人」
 道具屋に戻っては来たものの、リトは先刻から落ち着きがなかった。部屋の窓からはファルとティララの対決がよく見える。雷やら炎やら、水やら風やらが乱舞しては、気にするなと言う方が無茶な話だ。かと言って、魔神同士の諍いを仲裁するだけの力がない自分が憎い。
「俺って、マスター失格かも……」
「お前が止めたところで、あいつらは納得はせぬだろう。放っておけ」
 どんどん自己嫌悪の海に沈みそうなリトに、さりげなくディーヴァがフォローを入れてくれた。感情に流されることのない彼女の態度は、予期せぬトラブル発生の際には心から頼もしく思える。
「それに、私たち魔神が死ぬことはない」
 ただ、彼女の慰めにはいまいち安心感が足りないのである。つまり、普通の人間なら致命傷となりうるまで、徹底的に叩き潰し合いかねないとでも言うのか。――けして想像に難くないのが恐ろしい。
「いや、そういう問題じゃないと思うんだが……」
 リトは反論を試みかけたが、言葉は虚しく尻すぼみになった。そもそも安全な家の中に逃げ帰っておいて、彼女たちの身を心配する行為自体が間違っている。そしてまた、リトは自分の不甲斐なさを責めるのだ。
 一人で勝手に落ち込む主人の姿は気にも留めず、ディーヴァは厨房に立って調理用ナイフを手にしている。無愛想な容姿とは裏腹に、案外料理は得意だったりするのだ。日々の冒険の合間を繕っては、道具屋の主であるイリスに台所を借りて、仲間たち全員に食事を振舞っている。
「ディーヴァさん、蝙蝠の日干し、これくらいで足りますか?」
 そこに、おさげ髪の少女――イリスが裏口からひょっこり顔を出した。彼女が両腕に抱えたざるの上には、干からびた蝙蝠の翼がてんこ盛りにされている。これを煮込んでだしを取ると、深い旨みが出て俄然美味しくなるのだ。料理人の間では常識とされる基本テクニックである。
「ああ、充分だ。わざわざすまないな」
「良いんですよ、ディーヴァさんのお料理はとっても美味しいですから!」
 ディーヴァがざる一杯の日干しを受け取ると、イリスは小首を傾げてとびきりの笑顔で応じた。先程から家全体をびりびりと揺るがすほどの、凄まじい爆発音が断続的に聞こえて来るにも関わらず、だ。根性が座っていると言うか何と言うか……。あまりにも普段通りの平和な光景に、リトは頭痛と眩暈を感じずにはいられなかった。



 一方、外ではいつ終わるとも知れない不毛な争いが続いていた。
「うぇぇぇ、おばさんがいじめるよぉう!」
「だっ、誰がおばさんですってぇ!?」
 ファルが禁句と共に氷結玉を投げ付けると、ティララはすかさず火炎魔法バエラで応戦し、カーミラは「氷結玉はひれ一個と交換だよ」と宣伝を忘れない。互いにかなり消耗してはいたが、どちらも負けを認めるくらいなら、町を――いや、島一つを滅ぼすまで戦う覚悟を決めていた。人の願いから生まれ出たものでありながら、信じられないほどはた迷惑な魔神たちである。
「命が惜しいなら、さっきの言葉は取り消しなさい!」
 肩の辺りで大きく息をしながら、ティララは自棄糞気味に剣を振り下ろした。極度の疲労のためか、ほとんど狙いは定まっていない。刃の先端はファルの体を掠めて、虚しく地面に突き刺さっただけである。――しかし。
 ファルの持っていた小さな鈴の紐が切れた。
「!」
 ちりん、という儚い音を聞くなり、間髪入れずにティララがトアーを唱える。地面が大きく波打つように揺らいで、ファルはたまらず倒れ込んでしまった。直接のダメージは少ないものの、相手のバランス感覚を奪う補助魔法である。
 その瞬間、ティララが自らの勝利を確信するほどに、ファルはまったくもって無防備な姿を晒していた。全身が土と泥にまみれて、今にもべそをかき始めそうである。すっかり戦意すら喪失してしまったようだ。おそらくティララのエスレイオンの詠唱を止めることはできないだろう。
「すべてを灼き尽くす裁定の業火よ、我が手のひらに宿れ!」
 凛とした詠唱に呼応するように、ティララの両手に燃え盛る炎が生まれた。いくら入念に魔法耐性を施していても、確実にファルに止めを刺せるだけの力がある。持てる魔力のすべてを注ぎ込んだ、抗うことすら許されぬ強烈な一撃となるはずだ。
「おおっと! ファル選手、このまま負けてしまうのでしょうか!」
 戦況がティララ側に傾いたのを見て取り、カーミラを始めとした野次馬たちも興奮の色を隠せない。ティララに止めの攻撃を求める声と、最後までファルを援護する声とが入り乱れていた。しかし、今までの疲労も手伝って、ファルはいまだ立ち上がれずにいる。――ただ、その口唇がわずかに動くのが見えた。
「みい……、一人は嫌なの……。リトにずっとずっと、ぎゅううってしてもらいたいの……」
「―――――」
 内容を聞き取ることができたのは、おそらく一番近くにいたティララ一人だけだろう。最後の一声さえあれば、すぐにでも魔法は発動できる。しかし、ファルの孤独な呟きを耳にしたことで、ティララの中に小さな迷いが生じていた。
(……私だって、そうよ)
 しかし、中途半端な同情の念は、すぐさま激しい嫉妬心にすり替わる。彼女の脳裏に浮かんだのは、遠い昔、かつて女神を愛した一人の少年の姿だった。一途に自分だけを求める純粋な瞳、汚れを知らない優しく穏やかな笑顔。愛すること、愛されることの喜びを教えてくれた男性。
(ずっとずっと待ってた)
(誰にも渡したくなんてない)
 やがて、瞼に刻まれた少年の輪郭がぼやけて、再び巡り合った愛しい人の姿へと変化してゆく。けれど、彼は一切の記憶を失ってしまっていた。リトの笑顔はティララだけではなく、他の誰に対しても同じように向けられる。――もちろん、ファルにだって。それどころか、幼さを武器に愛想を振り撒く彼女には特別に甘いのだ。
 許せなかった。過去の悲劇を繰り返すことに怯えて、素直になれない自分が何よりも悔しかった。千々に乱れた彼女の心を表すかのように、ティララの手のひらで炎がより大きく育ってゆく。
(アイシテイルノヨ……!)
 感情はすでにコントロールを失い、ティララが最後の一声を発しようとした、まさにその時である。
「やめろ!」
 制止の声を張り上げながら、魔神たちの戦いに割って入った人物がいる。彼は野次馬の人垣を強引にかき分け、一直線にティララの眼前まで飛び込んで来た。いざとなったら、誰よりも無謀な真似をやってのけてしまう人――リトである。
「ティララ! いくら何でもやりすぎだ!」
 リトは両腕をいっぱいに広げて、背後の少女を守るように立ち塞がる。すると、ファルは大粒の涙を流しながら、夢中でリトの背中にしがみ付いた。まるで最初からこの展開を期待して、タイミングを見計らっていたかのような素早い行動である。……さすがに邪推のしすぎだと思いたいところだが。
「ふえぇぇぇん、リトぉぉぉ!」
「よしよし、分かったからあっちに行ってな」
 リトは子供をあやすようにファルの頭を撫でてやった。彼女が小走りに退場したのを確認し、再びティララと真正面から向かい合う。リトの入れた無粋な横槍に対して、観客からは大ブーイングが発生したが、彼の瞳に臆する様子はまったくなかった。
「何よ……」
 目下の敵がいなくなったせいで、ティララの怒りの矛先はリトに移行した。無性に腹が立って仕方がない。今なら、ただの八つ当たりでも世界を滅ぼせそうな気がする。
「人のこと、何百年も待たせといて……」
「ティララ?」
 気遣うようなリトの、罪のない表情が嫌いだった。それ以上に、みっともない激情に囚われるティララ自身がたまらなく惨めだった。今の自分はきっと、ひどく醜悪な姿をしているに違いない。誰に「おばさん」と罵られても反論できないくらいに。ティララの中の負の感情が、リトに向かって一気に収束していく。
「そのくせ自分は全部忘れちゃうなんて、ずるいわよっ!!」
 ティララの手のひらで魔力の塊が暴発した。燃え盛る業火が彼女の体を包み込んで、野次馬たちにまで飛び火する勢いである。魔力によって生み出された炎は、意思を持つかのように地を這いずり回り、あらゆるものを飲み込もうと牙を剥いた。――そう、のどかなはずの町は突如として地獄絵図へと変貌したのである。
「てぃ、ティララのバカぁぁぁッ!!」
 最後に聞こえたのはカーミラの絶叫だった。集まった人々は残らずパニック状態に陥り、他人を押し退けてでも安全な場所に避難しようとする。――そんな中、骨董品屋の老主人が転んだ。しかし、誰も手を差し伸べてやる余裕などない。もしかしたら我が身可愛さに、見て見ぬ振りすらしているかもしれない。
 その様子を目の当たりにしたリトは、唾液を飲み込みながら拳を堅く握り締めた。町の全員を助けるには元凶を落ち着かせる他にない。リトは覚悟を決めて、あえて炎の中心へと飛び込んでゆく。
 そして、ほとばしる炎ごとティララを抱き締めたのだった。
「ティララ!!」



「人間って不思議な生き物ですよね」
 まな板の上で野菜を刻みながら、イリスは宙に向かってぽつりと呟く。彼女は並んで厨房に立ち、ディーヴァの料理を手伝っていた。
「魔神はけして死ぬことはない。そのことはよく知っているはずなのに、どうして私たちを命がけで庇ったりするんでしょう」
 イリスはどこか哀しげな目をしていた。けして取り戻せない過去に思いを馳せるように。いつになく真剣な彼女の問いに、ディーヴァはスープの味見をしながら、曖昧に頷き返すことしかできなかった。
「そう、だな……」



 すべてが終わった今、ティララはひどく憂鬱な気分に苛まれていた。魔力を少々過剰に消耗したらしく、ひどい偏頭痛にまで悩まされている。……今日は厄日だとしか思えない。
 リトに合わせる顔がなくて、彼女は港の近くにまでやって来ていた。霧に覆われて何も見えないが、なんとなく海の彼方を眺めてみる。そして、一日の出来事をゆっくり反芻し始めた。
 あの後、リトの身を呈した制止によって、彼女はなんとか正気を取り戻した。ファルの水魔法の助けもあって、暴れ狂う炎もすぐに消し止められた。しかし、被害は一部に留めたものの、町の木々はすっかり焼け焦げ、野次馬たちは恐怖に慄いて逃げ惑い、目の前にはリトの丸焼きが出来上がっていたのである。
「最悪……」
 今回の一件でリトには完全に呆れられてしまっただろう。試合自体はティララ優勢のまま締め括れたかもしれないが、最後の最後でみすみす相手に勝ちを譲ったようなものである。短気を起こした自分に嫌気が差して来た。
 今頃、リトはファルと仲良くやっているのだろうか。二人のだっこぎゅーを想像しただけで、途端に胸糞が悪くなるのだから相当な重症だ。だから、まだ道具屋には帰れない。笑い合う彼らの姿を見る勇気はなかった。
「もう昔みたいには戻れないのよ、ね……」
 最初から分かっていたはずだ。リトはリトでしかない、と。女神に恋した純粋な少年でもなければ、力に溺れて孤独の中で死んだ狂王とも違うのだ。美しい思い出に縋ろうとする自分は弱い。
 オレンジ色の太陽がまもなく水平線の下に隠れようとしていた。それを綺麗だと思うのは多分リトの髪と同じ色だから。膝枕をしてあげながら、優しく梳いてみたいと願うから。
 夕暮れ時が訪れてもまだ帰りたくなくて、ティララは小さく丸まるように両膝を抱き寄せた。このまま夜を明かしてしまうのも悪くはないかもしれない。どうせ誰も心配なんてしてくれないのだから。
「いつまでこんな所にいるつもりなんだ?」
「!」
 ふてくされたティララに、声をかけて来た人物が一人。ごく自然な動作で、彼はティララの隣に腰を下ろした。顔なんて見なくても分かっている、声だけで。いや、わずかに視界に滑り込んで来た、ごつごつした手のひらでも判別が付けられる。誰よりも愛しいのに、誰よりも憎らしい人――リト。
「さぁ、自分でも分からない」
 ティララの投げやりな回答に、リトはなぜか小さく吹き出した。相手の態度に腹が立って思わず顔を上げると、彼はティララと同じように海の向こうを見つめている。夕日に目を細める穏やかな横顔は、あの頃と何も変わっていないように見えて、ティララは密かに息苦しさに喘いだ。
「ねぇ、ファルのことは放っておいてもいいの?」
 ティララはわざと嫌味を滲ませた口調で問いかけてみる。しかし、相手に別段気にかけた様子はなかった。軽く聞き流された事実がまた、ティララの劣等感を刺激してしまうのだが。
「実を言うと、逃げ出して来たんだ。さすがに窮屈でさ」
 ファルの無敵のだっこぎゅー攻撃には、毎度付き合わされるリトも辟易していたらしい。先程からしきりに首を左右に傾けて、慢性的な肩の凝りをほぐそうと試みていた。少々大仰なその仕草。
 しかし、ティララはまたもや自分の中の感情が暴れ出すのを感じていた。彼は別にティララを心配して探しに来てくれたわけじゃない。ならば、一刻も早く立ち去って欲しかった。一緒にいるのは、……苦しい。
「だったら、さっきはどうして庇ったのよ」
「え?」
「生身の人間が魔神同士の戦いに割り込むなんて正気の沙汰じゃないわ。……それとも、そんなにファルが大事なの?」
 知らず知らずのうちに詰問するような声音になっていた。同じ場所をぐるぐる回ってばかりで、いつまで経っても前に進めない自分が嫌いで。ティララは涙を抑えるために、口唇をきつく噛み締めて耐える。いよいよ取り返しが付かないほど軽蔑されてしまう、と思った。
 なのに。
 リトは笑った。――すべてを受け入れ、包み込むような笑顔で。
「違うよ、ティララを後悔させたくなかったんだ」
「後、悔?」
 リトの口からは意外な単語が飛び出した。けれど、不思議と反発する気にはなれない。ティララはじっと、次に語られる彼の言葉を静かに待った。
「そう、あそこでファルを攻撃していたら、ティララは絶対に後悔していたと思う。だから、止めたんだ」
「でも……」
「だって、ティララは仲間を傷付けておいて、平気な顔をしてられるような奴じゃないだろ? 少なくとも、俺はそう信じてるからさ」
 最後まで言い切ってから、リトは照れ臭そうに頭を掻いた。そして、ティララの中で頑なな氷がみるみる溶けてゆく。誰よりも守られていたのは他でもない彼女自身だったというのに。リトの本当の優しさにも気付けぬまま、もう少しで嫉妬の炎に狂ってしまうところだった。
「ごめんなさい……」
「うわっ、どうしたんだよ、ティララ!」
 ティララの大粒の涙に驚いて、リトは慌てふためくばかりである。女の扱いに慣れてない辺りも彼らしくて、どうしようもないくらい愛しくてたまらない。ハンカチの一枚も差し出せないような人だから、いつまでも止まらない涙は彼の胸で拭わせてもらうことにした。
「……しょうがないな」
 リトは幼い子供を相手にするように、ぽんぽんと優しくティララの頭を撫でた。恋人同士のロマンティックは感じられなかったけれど、自分だけを心配してくれる彼の気持ちが嬉しくて、心地良くて……。ティララはもう少しの間だけこうしていよう、と思った。



END



ウチのファルは計算高い幼女です。(2004.2.25初稿、2006.2.3大幅加筆)

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