龍になった少女−6

著者:karina

 『私は、覚えている。
 水面から差し込む眩い光を。
 身体に纏わり付いて来る水の冷たさ、潮の荒々しさを。
 激しく攪拌され、耳元で猛々しく唸り狂う、大海のうねりに飲み込まれて。

 次第に昏く、深淵へと沈み行く。
 まるで始まりに還るように、私の全てを飲み込むように。
 空は何処までも遠ざかる。
 もう二度と戻る事の叶わぬ其処に、多くのものを置き去りにして。』

 ――少女は、自らの身体を固く抱き締めた。
 無数の傷が刻み込まれた其の腕で、己以外の全ての関与を拒むかのように。

 より深く、光の届かぬ領域に。

 本能は生きたがっている。
 少女の想いもまた、死を望んではいなかった。

 幽かに揺らぐ陽光が絶えた時、少女は確かに哭いていた。
 消え往く意識が最後に映し出す記憶は、優しかった頃の父の顔。

 少女が望んだ結末では無かった。
 例えもう二度と届かぬと知りつつも、少女の無意識は想い出の中の愛しき父に手を伸ばす。

 そして、其れは本当に、少女にとって光に溢れた想い出の情景との永久の決別となる。

 いや……病んだ父親を癒す為、龍の因子を受け入れたあの時から、少女の中の人間としての可能性はとうに死に絶えていたのだけれど。

 死を超える苦痛、幼い少女には残酷過ぎる結末。

 『(父さん……)』

 姿形の変容と共に、少女は人間の言葉さえも失っていた。

 『(痛いよ……苦しいよ……父さん、助けて……)』

 『ヒッ……ば、化け物だっ……!!』 『な、何をしているっ!殺せっ、殺すんだぁぁぁーーーっ!』 『射てっ、矢が尽きるまで射ちまくれぇーーーっっっ!!!』
 
 助けを求める少女の悲痛な声は、人間の耳には恐ろしい龍の咆哮にしか聞き取れない。
 其の叫び声の哀しげである事に気付けるだけの人間など、この場には一人として居りはしなかった。

 『(酷い……酷いよ、父さん……私っ……父さんを助ける為にこんな躯になっちゃったのに……っ)』

 軍勢が射掛ける矢の数々も、龍の強靭な鱗を貫く事は出来ない。
 只、少女の心だけが傷付いて往く。

 人間を遥かに凌駕する超常の力、そして不老不死の肉体。
 今は、其れが疎ましくて仕方が無かった。

 もしも、無力な少女のままで居られたら。
 或いは、矢に貫かれて一思いに死ねたのであれば。

 『(うああああああああああああああああああああああああーーーーーーーーっっっっっっっっ!!!!!!!)』

 蟲けらに等しい有象無象の群れの中心に、派手な甲冑に身を固めた父親が居る。
 娘の血を売り捌き、巨万の富と権力を手にして尚飽きたらず、己さえも見失い貪欲の権化と堕した咎人が。
 其の顔を白蝋の様に蒼褪めさせて。
 唯只管に、射よ射よと、半狂乱になって喚き続けている。

 爬虫類の冷たい眼差しが、父親を射竦める。

 『(父さん……)』

 抑えられない衝動。

 『(……私と一緒に……)』

 龍が泣いていた事に、幾人の人間が気付いてやれただろう。

 『(来てください!)』

 少女の咆哮に、海が応える。
 逆巻き、渦を巻き、怒涛となって押し寄せる。
 父親も、軍勢も、欲呆けた群衆も、等しく塵芥の如く押し流し――

 嗚呼……もしも、無力な少女のままで居られたら。
                                       少女は唯、愛が欲しかった
 或いは、矢に貫かれて一思いに死ねたのであれば。
                                       自分を撫でてくれる人が居て
 最愛の父親を。
                                       自分を抱き締めてくれる人が居れば充分だった。
 自らの手で殺さずに済んだのに。
 
 『(………父さ……)』
                                       静かな波打ち際に、応える者は無く。
 『(……うっ……うぇっ………)』
                                       龍は全てを失い、孤独となる。
 『(…父さん……父さんっ………うぐっ……)』

 『うわぁあぁあぁぁああぁぁぁぁぁぁぁぁああぁぁあぁぁぁぁぁんっっっ!!!!!!!!』


 「…………………」

 また、同じ夢を見て、ファルは泣きながら哀しい朝を迎えた。

 「………きゅぅ?」

 尻尾に真っ赤なリボンを結んだ青いクゥが、心配そうにファルの顔を覗き込んで居た。
 ファルは慌てて布団の端っこで涙を拭うと、元気良くベッドから飛び起きる。

 「ふぃ〜……心配しなくても、大丈夫なの」
 「きゅぅ……?」
 「……ファルの恥ずかしい秘密を見たの。だからセキニン取って貰うの〜」

 ばふっ。

 クゥを抱き抱えると、ファルは暫しもじゃもじゃに顔を埋めて幸せな気分に浸った。

 うん、少なくとも今は孤独なんかじゃない。

 警戒心が強く、中々人間に慣れる事が無いクゥだが、どうやらこいつは完全にファルに懐いているらしい。
 ファルの手に発条みたいな尻尾を巻き付けて、じゃれ付いたりしている。 
 自分自身以外では数少ないファルのお友達だった。

 ファルはクゥの見た目の愛らしさや、もじゃもじゃの感触が大好きだ。
 今のところ他にも五匹ほど飼育していて、何時かはクゥの牧場を作るのが夢だったりする。
 勿論、ラーメンにして食べたり、入浴剤の代わりにしたり、尻尾だけ切り取って売ったりなんかしない。
 毎日クゥと戯れて過ごす、これに勝る幸福があるだろうか。

 「みぃ〜〜〜♪」

 すりすりすりすりすり。

 だっこぎゅ〜しているクゥに頬擦りしながら、ファルは牧場でクゥの群れに埋まっている自分を妄想する。
 みぃ〜〜〜!幸せ過ぎて困っちゃうの〜〜〜!

 「みぃみぃみぃみぃ〜みぃっみぃ、みぃみぃっ、みぃ〜っ、みぎゃーっぎゃーっ!」

 ぎゅぅぅぅぅぅっ、ぎちぎちぎちぃっ!

 「きゅっ、きゅいあ〜っ!」

 あっち側に逝き掛けたファルの頬を、クゥが慌てて尻尾でペシペシ叩いて引き戻す。
 この時、クゥの残りHP、僅かに2P。

 「――はっ!あ、危なかったの……」

 クゥの額のドロップに耽溺性がある事は知られているが、ファルはクゥにすりすりするだけでトリップ出来てしまう女の子なのだ。
 酷い時には三日くらいぶっ続けで妄想の世界に入り込んで遊んじゃう事もある。
 ファルは魔神だから、三日くらい飲み食いしなくても平気だが、クゥは曲りなりにも生物なのでそうは行かない。
 雑食性なので好き嫌いはしないのだが、ちまっこいくせして実に食欲旺盛なのだ。
 おまけに良く寝るし。放って置いたら殆ど一日中寝ている。正に動作係数はねこねこ並だ。
 長い妄想からファルが戻って来た時、クゥの毛皮は栄養失調のせいで色艶が褪せてパサパサになってしまっていたし、頬擦りされまくっていた箇所だけ、妙に窪みが出来てしまっていた。
 反対に、ファルの方はやけに艶々といい感じのお肌の張り具合になっていたりして。
 ……だからティララに捕まって、美容洗顔タオル代わりにされてしまうのだ。

 「ご、ごめんね……大丈夫……だよね?」
 「きゅぅ〜っ!」

 クゥは尻尾の先っちょの毛を逆立てて、本気で怒っていた。
 そりゃそうだ、体の形が変わってしまうくらいきつく抱き締められたら、誰だって怒る。
 ……相手がスライム族の魔物の場合はどうだか知らないけれど。

 ファルは出来る限りそっと優しく、凹んでしまったクゥの形を整えてやった。
 日頃抱き枕にされたりして潰され慣れているクゥは、大人しくされるがままで居る。
 因みに、クゥ本来の形は、完全過ぎる位に完璧な大福餅のような形である……が。

 「……ふぃー」
 「きゅ?」
 「ち、ちがうのー。ファル、クゥのもじゃもじゃでリトの顔作って遊ぼうなんて思ってないのー」
 「くきゅーっ!」

 それでもさりげなく、クゥの体毛で、ヒゲディーヴァを作って遊んじゃうファルである。
 クゥ達の円らな瞳は前の方は良く見えるが、お尻の辺りは死角になっているので、多少悪戯しても気付かない。
 更に、ヒゲティララとヒゲイリス、ヒゲカーミラまで、器用に作り出して行くファル。
 ちょびヒゲ、不精ヒゲ、カイゼルヒゲ……。

 「(もうちょっとしてクゥの毛が伸びたら、散髪する時にみんなのお髭を刈り取るの〜♪)」

 本人達が見たら魔神大戦争が勃発しそうなもじゃもじゃアートを抱えて、今や不本意にも世界滅亡の鍵を握る事となった毛玉生物は、ご機嫌に愛らしく尻尾をフリフリした。

 「これで元通りなの」
 「きゅう♪」
 「うーん、でも、ちょっと元よりもかっこよくなりすぎちゃったかも」

 勿論、ファルは本気でそう思っている。
 つまり、ファルの美的センスに照らし合わせれば、其れは紛れも無く<カッチョイイ>のだ。
 例え無断でキャンバスにされたクゥや、無断でヒゲを付けられたモデルのおねーさま方が怒ったとしても。
 ……ゲージツって、難しい……。

 「ちょっと待ってね、今ごはん作るから」

 本当はもう少し遊んで居たかったのだけれど、もじゃもじゃの甘い誘惑と未練を断ち切って、ファルは<おねんねの部屋>のカーテンを開ける。
 爽やかな陽光と潮風が、閉め切っていた部屋の中に入り込んで来る。
 新しい朝の空気を胸一杯に吸い込んで、ファルは一つ大きく伸びをした。

 きっと、今日も素敵な一日になるよ。

 「んーーーーーーーーーーーーっ」
 「くきゅーーーーーーーーーーーっ」

 ファルの横で、クゥも尻尾を大きく伸ばして直立姿勢で固まっていた。

 ……本当に、クゥって一体どういう身体の構造をしているんだろう。


 ファルは今、リトと一緒に冒険の旅をしている。

 天界龍アドーナの壷の中に引き篭もってから、一体どれほどの年月が経過したのか、ファルは知らない。
 余りにも長い間壷の中に居たせいで、ファルは人間の言葉を忘れ掛けていた位だ。
 自分に呼び掛ける誰かの声を聞いて壷の外に出た時、世界は大きく様変わりしていた。
 閉ざされた島唯一つを残して、場所も、歴史も、全てが綺麗サッパリ無くなってしまっていた。
 いや、もしかしたら外界に出られないだけで、外の世界は存在するのかも知れないけれど。
 この島の住民で其れを確認した者は居ないし、初めからこの島以外には何も存在しないのだと信じている者も少なくない。
 ――ファルは知っている。
 自分が人間であった頃、父親と暮らしていた時代には、未だ外界に幾つもの国が存在していた事を。

 永い、永い、孤独な時を、ファルは壷の中の孤島の家で過ごした。
 別れ際にアドーナが言っていた通りだとすれば、此処はファル自身の心象世界。
 何時でもなく、何処でもなく、ファルが必要とする物だけで構成された世界。
 ……そして、ファルが必要としない物は何も存在しない世界。

 魔神は、永遠の時を生きる。
 壷は魔神の固有領域であり、自分と心を交わらせた者以外のあらゆる者の侵入を拒む聖域。
 誰かの想いに応える時にだけ、魔神は存在理由を獲得し、現世に顕現する。
 誰にも必要とされていない時には、壷の中に居て退屈な時を過ごしている。

 まるで消えてなくなってしまった外の世界のようだと、何時かティララが言っていた事をファルは覚えている。

 お互いに観察し、観察され、愛し、憎み、何らかの存在理由を付与されなければ、存在は空虚になる。
 少なくとも、相手にとって<何でもない>存在は、存在として認識される事すら無い。
 勿論、相互に認識し合っていたとしても、其の関係がお互いにとって幸福であるとは限らないし、
 どんなに幸福な関係でも、最後には全て零に戻ってしまう事にも、ファルは気付いている。

 壷の中は全てが終わった後、全てが始まる前の時のままなのだと、ディーヴァが言っていた事がある。

 ……けれども、ファルは良く解らない。
 確かに、壷の中に居る時の自分は一人ぼっちだけれど、其処に自分が居るのだから決して零じゃ無い筈だ。

 そう言えば。
 何時頃からだっただろうか、ファルの住む孤島に外界の生物である筈のクゥが出現するようになったのは。
 とても、とても、とても久しぶりに、クゥという生物の事を夢に思い出した日からでは無かったか。
 あれらも実は自分の分身なのではないだろうかと思い掛けて、ファルは考えるのを止めた。
 
 何だか、其れを考えると、とても寂しい結論が出てしまいそうな気がしたから。


 「ふんふんふんふふんふんふ〜ん♪」

 テーブルの上で朝御飯を心待ちにしているクゥを横目で見ながら、ファルは意外と小器用に、手首の動きだけでフライパンの中身を裏返して見せた。
 父親が寝たきりの間、食事や洗濯の世話をしていたのはファルなのだから、手馴れていても別に不思議では無いのだけれど。
 普段の言動がやたらと幼いだけに、多少の違和感を感じてしまう。

 因みに、水龍ファルドゥン、人間年齢に換して十歳。
 自称は世界の選択なので十四歳、実年齢は……オトメのヒミツだ。

 「ファルのお料理講座ー!今日は『海岸洞穴風・白身魚のファルサンド』を作るのー!」

 クゥが尻尾をテーブルに打ち付けて、パチパチと拍手のような音を鳴らした。
 ……相変わらず、毛玉尻尾でどうやって硬質な音を出しているのかは良く判らない。

 ファルはノリノリで、クゥに向かって解説しながら、サンドイッチの具を焼き上げて行く。
 実を言えば、魚油の焼ける良い匂いがほんのりと立ち上って来た辺りから、既にクゥの興味はフライパンの中身にしか向いていないのだけど。

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海岸洞穴風・白身魚のファルサンド(一人と一匹分)の作り方〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 魚油をフライパンに良く熱しておく。(癒油でも代用可)
 細切りにした野菜を炒める。
 縞魚の白身を解しながら焼き上げる。
 クラインの卵を二つ溶いて入れる。(無かったら鶏の卵を三つでも構わない)
 塩コショウを少々、お好みで香草を加え、更にディーヴァに作り方を教わった秘伝のソースも大さじ一杯。
 薄切りにしたチーズと一緒に、焼き立てのパンに挟む。
 一口大に切り分けて、オリーブの実と一緒に爪楊枝で刺して食べ易くする。
 暖めたミルクには蜂蜜をたっぷりと加えて、準備OKなの♪
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ファルが料理を並べた皿をテーブルに置こうとすると、待ち兼ねたクゥが凄い勢いで顔を突っ込んで来た。

 「おいしい?」
 「きゅう♪きゅう♪」
 
 クゥは尻尾を振り振り、満足げにパンを飲み込んで行く。
 ファルは以前、クゥのお腹に手を差し入れてみた事がある。
 向こう側に突き抜けたから、慌てて手を引き抜いた。
 何処からどう見ても毛玉の塊にしか見えないんだけれど、食べた物は一体何処に消えてしまうのだろう。

 ディーヴァは、クゥを食べた事があるらしい。
 絲玉を解くようにして、其れをまた捩り合わせ、熱い湯に浸して作る幻の珍味<空々麺>に挑んだのだ。
 中がどうなっていたかを聞くと 「三枚に卸してみたが、内臓の類は見受けられなかったな」 とか言っていた。
 とってもザンコクだなぁとファルは思ったけれど、これも大自然の摂理だから仕方の無い事だ。
 だから、ディーヴァの捌いたクゥの尻尾を、後でイリスがこっそりと持ってってお店で売りに出していたのも、きっと仕方の無い事なのだろう。
 薬草の安売りのし過ぎで、店が赤字で潰れそうだとか言ってたし。
 ……生きるって、厳しい……。

 「でも、クーが虐められたらファルが守ってあげるからね」
 「くきゅぅ?」

 蜂蜜ミルクで口(?)の周りの毛をべたべたにしながら、クゥが不思議そうに体を傾けた。
 クー、と言うのは、このクゥにファルが付けてやった名前だ。
 名前は、人間が自分にとって特別な存在に与えるもの。
 吉事であれ凶事であれ、人間は世界を名状する事で、其れに理由や意味を付け把握の便とする。
 魔神に変わってしまってからも、ファルは幾つかの人間の頃の癖が抜け切らないで居る。

 皿の中身を食い尽くしてしまったクーが物欲しげに見ているので、ファルは更に自分のパンを半分分け与えた。
 お昼時までにお腹が足りなかったら、食料庫から林檎でも出して来て食べよう。

 「あーあ、早く他のクゥ達も、ファルと一緒にお食事出来るようにならないかなぁ〜」

 もくもく……。
 
 自分のパンを口に運びつつ、ファルは壮大な計画を頭の中に思い描いた。

 残り五匹の調教が済んで、勝手に逃げ出したりしなくなったら、<おねんねのへや>と<もじゃもじゃのへや>の間の壁を取り払って、一つの大きなお部屋にしてしまおう。
 其れから、大きなテーブルを部屋の真ん中に置いて、壁際の天井にはクゥ達専用のハンモックを吊るそう。

 ……今後のクゥ育成計画に夢中のファルのお皿から、クーがパンを一切れ掻っ攫った。

 むぐむぐ。おいしい。もう一切れ。
 ファルは全然気付いていない。

 ――クゥには変な習性がある。
 怯えると、凄まじい速さで体を震わせ、姿を隠してしまうのだ。
 冒険者達が<空間渡り>と呼んでいる行動の事だが、実際に何処かへ転移してしまう訳ではない。
 とは言え、気配まで巧く消してしまうものだから、一度クゥに逃げられてしまうと中々捕まえる事が出来ない。
 其れは其れでかくれんぼのようで楽しくはあるのだけれど、クゥはとても臆病な生物だから、見つけられるまでは餌も水も取らずに隠れ続けてしまうので、放って置く訳にもいかないのだ。
 以前行方不明になったクゥが、一ヵ月後に干草のようになって地下室の空き樽の中から出て来た事があった。
 もしもクゥが透明になっても、隠れ場所の無い小部屋の中でなら見つけ出すのも容易い。
 ファルが態々一室を潰してクゥ専用の小屋を作っているのには、そういった理由がある。
 世界一の……そして恐らくは世界で只一人の……クゥ・ブリーダーの名は伊達じゃない。

 「そろそろ餌も変えないと、もうすぐ色が決まっちゃう時期だし〜」

 ――赤、青、黄、緑、白、黒、クゥは育った環境に因って異なる色の個体に育つ。
 餌の味付けやお風呂の温度、睡眠時間やお散歩の回数、だっこぎゅーの頻度までが全部影響するのだ。
 色だけでなく、性格とかも多少違っていて、例えば赤は情熱的だし、黒は攻撃的でちょっと飼い辛い。
 人気が高いのは賢くて気性も穏やかな白だが、たまに変な行動を取る緑や、カレーが大好きな黄色も捨て難い。
 クーが青クゥだから、後の五匹で其々一色ずつ、ファルは全色揃えにするつもりだった。

 「うーん、でも……全部青で揃えるのもいいよね……迷っちゃうなー」

 ぬりぬり。
 バターを塗り付けて。

 其れがつまみ食いに夢中のクーである事に、ファルはまだ気付いていない。

 3……2……1……ぱくっ。

 「きゅいあああーーーーー!!?」「みっ、みぃぃぃーーーーーーっっっ!!?」


 何時もの海岸、何時もの散歩。
 ファルとクーは、毎朝一緒に並んで波打ち際を散歩する。

 ざざぁん……。

 波頭に虹色の泡が生まれては消えて、寄せ来る波にまた生まれ、其れを幾度と無く繰り返す。
 水飛沫に服の裾を濡らしながら、ファルはそっと泡に触れてみた。
 朝日が海上に一条の光の小道を作り出し、潮騒が静かな風と共に吹き抜けて行く。

 時折、一片の花びらが風に舞い、クーは跳び上がって其れを捕食しようと試みる。
 そんな時、ファルは考える。
 たくさん花びらを食べたら、クーの色がさくら色に変わっちゃったりしないかなぁ、とか。
 残念ながら、ファルは本物のさくらを見た事が無いから、この壷の中の世界に其れが出現する事は無いだろう。
 世界が姿を変えてしまうまでに、其れを見る事が出来なかった事を、ファルは残念に思っていた。

 カーミラはさくらを見た事があるらしい。
 北国の厳しい冬が通り過ぎて、雪解けの頃になると一斉に咲き誇る小さな白い花。
 まるで春を運んで来てくれるかのような花は、多くの幸せで哀しい物語と共にあるのだとか言っていた。
 新しい事が始まる季節は、別れの季節でもあるから、とても幸せで哀しいのだ、と。
 それでも、人々は春を待ち望み、さくらの到来を待ち望むのだとカーミラは教えてくれた。

 そう言えば、ファルはまだ雪も見たことが無かったりする。
 生まれ育った海辺の小さな村の風景が、ファルの知っている殆ど全ての世界だった。
 そして、この壷の中の世界は、何処となく昔ファルが暮らしていた世界の風景に似ている気がする。
 何処までも、海の向こうにまで世界は広がっているけれど。
 自分自身の目で見て来た世界は、もしかしたら閉ざされた島の世界よりももっと小さかったんじゃないだろうか。
 
 小さな小さなファルの世界。
 此処は一年中春のように暖かい。
 家の裏手は大きなお花畑になっているし、ファルのおうちと同じくらいに背の高い樹だって立っている。
 ファルは、木陰でクーと一緒にお昼寝をしたり、樹に登って遠くを見渡したりする。
 何処までも青い空、蒼い海、其の果てに何があるのか、或いは……何も存在しないのか。

 何時でもなく、何処でもなく、ファルが必要とする物だけで構成された世界。
 ……そして、ファルが必要としない物は何も存在しない世界。
 だからきっと、この世界の境界線は小さな島だけで、ずっと向こう側まで泳いでいっても、きっと何も無いのだろうとファルは考える。
 其れを確かめる勇気は無かったけれど。

 それじゃあ、閉ざされた島の向こう側にも、何も存在しないのだろうか。
 どうして、世界は姿を変えてしまったのだろう。
 実は、世界は誰かの壷の中で、其の誰かが望んだから世界は歪んでしまったのだろうか。
 街の桟橋に佇んでいたお婆さんは、島影が見えるって言っていたけれど、つまり誰かが外に出る事を望んで必要とすれば、境界線の外側にも新しい世界が広がって行くって事なのだろうか。

 だったら、閉ざされた島の世界を閉ざしてしまったのは、一体誰なんだろう。
 どうして、世界を閉ざしてしまったのだろう。

 「ねぇ、クーはどう思う?」

 ファルが足元に目を遣ると、額に張り付いた花びらが取れなくなってしまったクーは、其れを振り落とそうと必死になって、其処いら中を跳ね回っていた。

 「きゅいあーっ!」
 「ふぃぃーっ!クー、動いちゃダメなのーっ!ファルが取ってあげるから!」
 「きゅうーっ!きゅあっ!きゅいああーっ!」

 捕まえようとするファルの手を潜り抜けて、クーは正に脱兎の如く、物凄い勢いで叢の中へと消えた。

 「クーっ!」

 ファルは慌ててクーを追い掛ける。

 「逃げちゃダメなのーっ!」

 ざざざざざざざざざっ。

 揺れる高草を目印に、深い叢を掻き分けて。

 「クーっ!」
 「きゅいあぁぁーーーっ!」
 「はぁっ、はぁっ、はぁっ、けほっ……クーっ!」

 クーはどんどんファルから離れて行く。
 小さな島だと言っても、北西の一角はファルの背丈よりも高く雑草が生い茂っているし、岸壁付近には鋭く尖った岩や、潮に削られて出来た危険な孔だって――

 「クーっ!そっちは危ないから、行っちゃダメなのーっ!」

 叢の揺れはもう遥か遠く。
 張り出した草の根に足を取られ、ファルは泥の中に転び込む。
 慌てて立ち上がった時、既にクーの姿は視界から完全に消え去っていた。

 それでもファルは、クーが居なくなった方角に向かって走り続ける。

 もしも、クーが姿を消してしまったら、もう二度と会えなくなってしまうかも知れない。
 そうしたら、クーは一人ぼっちで、お腹を空かせて、怖い真っ暗な穴の中で死んでしまうかも知れない。

 「クーーーっ!!!」

 叢を抜けると、岸壁に打ち寄せる波の音が聞こえて来た。
 ぽつりぽつりと降り出した雨、眼下に広がる海は、空の色を映してやや暗く。
 付近を探し回ってみたけれど、クーの姿は何処にも見付からなかった。

 ファルはその場にへたり込んでしまった。
 本降りになって、冷たい雨が服に染み込んで来ても、ファルは動かない。
 強い風が一際大きく叢を揺らし、ファルの傍を吹き抜けて行った。

 何時でもなく、何処でもなく、ファルが必要とする物だけで構成された世界。
 ……そして、ファルが必要としない物は何も存在しない世界。
 何時頃からだっただろうか、ファルの住む孤島に外界の生物である筈のクゥが出現するようになったのは。
 とても、とても、とても久しぶりに、クゥという生物の事を夢に思い出した日からでは無かったか。

 寝物語に父親から語り聞かされた、伝承の中の不思議な生物。
 閉ざされた島で初めて出会った其の生物は、ファルが夢に思い描いた通りの姿で――

 何時頃からだっただろうか、ファルが自分の分身を相手に独り遊びをしなくなったのは。

 とても、とても、とても永い時間、<おねんねの部屋>で三人のファル達が眠りに就いたのも。
 自分以外の誰かと、再びファルが笑い合えるようになったのも。
 そして、永遠の刻に囚われて、全てを失った筈のファルが、再び夢や目標を見つけたのも。
 全て、あの小さな友達と巡り合ってからの事では無かったか。

 「――っ」

 ファルは再び立ち上がり、自分が今来た方角へと走り出す。
 
 草を掻き分け、泥を蹴り立て、息を切らして走り続ける。
 小さな手には無数の切り傷、其れでもファルは探し続ける。
 雨は益々勢いを増し、水滴は横殴りの風に吹き付けられて、痛い位にぶつかって来る。

 跳ね回る水飛沫の音に混じって、微かに、聞き覚えのある声がした。

 『……きゅぅーっ……』

 「クー!?」

 ――泥の中に半分埋まるような恰好で、草陰にクーが蹲っているのが見えた。

 蒼い光を放ちながら、ふるふると細かく震えて、其れでも必死で消えたがる自分を励ますようにして。

 「クーーーーーーっっっ!!!」
 「きゅっ!? きゅいああーーーーーーーーっっっ!!!」 

 ぼふっ☆

 弾丸のような勢いで、クーがファルの胸の中に飛び込んで来た。

 「きゅいああっ、きゅいああああーーーーーーーーーーっっっ!!!」
 「みいみいみいみいみいみいみいみいみいみいみいみいみいみいーーーーーーーーーっっっ!!!」

 ぎゅぅぅぅぅぅっ、ぎちぎちぎちぃっ!

 「きゅっ、きゅいあ〜っ!」

 感動の再開に咽び泣くファルの頬を、クーが慌てて尻尾でペシペシ叩く。
 この時、クーの残りHP、僅かに1P。

 「クーのばかぁっ!ばかばかばかばかばかぁっ!う゛え゛え゛え゛〜〜〜んっ!!!」

 ぎゅぅぅぅぅぅぅぅぅっっ、ぎちぎちぎちぎちぎちぃっっっ!!!

 「き゛ゅっ、き゛ゅいあ゛〜っ!」

 もじゃもじゃパワー全開。

 ファルの強過ぎる愛に、クーの顔色は真っ青になっていたのだけれど、元々クーのもじゃもじゃは真っ青だったから、多分世界中の誰もクーの苦しみを理解してやる事は出来なかっただろう。
 約半刻の間、二人は固く抱き締め合ったまま、雨の中で泣き続けた。

 ファルが漸くクーを解放してやった時、クーはすっかり瓢箪型に変形してしまっていた。
 
 「ふぃぃ〜……ファルもクーも泥だらけなの〜……」
 「きゅいあ〜……」
 「おうちに帰ったら、一緒に温かいお風呂に入るの♪」
 「きゅいあっ♪」

 泥塗れになったクーを見て、ファルは、黒いクゥも恰好良いかも知れない、とか考える。
 後でお風呂に入る前に、試しに靴墨を塗ってみようかな……。

 「……ふぃー」
 「きゅ?」
 「ち、ちがうのー。ファル、クゥのもじゃもじゃに靴墨塗ろうなんて思ってないのー」
 「くきゅーっ!」

 ぽんっ☆

 ファルの腕の中から、クーが飛び降りた。

 「あーっ、ダメなのー!逃げちゃダメなのーっ!」

 また、何処かに行っちゃったら大変だ。
 ファルは大急ぎで、クーの後を追い掛ける。

 「きゅうっ、きゅうっ!」
 「クー!」

 ちょっと離れた草陰で、ファルを誘うように尻尾をふりふり、クーは飛び跳ねる。

 「きゅうっ、くきゅうーっ!」
 「……ふぃ?どうしたの、クー?」
 「きゅいあー!」
 
 さっきまで、クーが蹲っていた地面の窪みに、何か埋まっているみたいだ。

 「みぃ……。これ、何だろ……」
 「きゅいあっ、きゅいあーっ!」

 ファルは地面に屈み込み、埋まっている物を掘り出してみた。
 大きな葉っぱに溜まった雨水で、綺麗に泥を洗い流す。
 ファルの掌に載る位の、硝子作りの小瓶だった。

 其れは、何時しか止んでいた雨上がりの陽光に照らされて、キラキラと眩い輝きを放つ。

 「凄いのー。クーってば、宝物見つけちゃったの」

 えっへん。
 威張って胸を反らすように、クーは尻尾で直立した。

 ……やっぱり、クゥって生き物はとても不思議な体の構造をしている、と、ファルは思う。

 「きゅう♪」
 「ちょっと待ってね。どうせ服は洗濯しちゃうんだし……」

 スカートの裾で硝子瓶を拭うと、ファルはクーの頭の上にそっと其れを載せてやろうとした。

 ぷるぷるぷる。

 「あーっ、ダメなのー。クー、じっとしてなきゃダメなのー」

 ぷるぷるぷる。 ……ずいっ。

 クーは、地面に転がった硝子瓶をファルの方へと押し遣って、円らな瞳でじっとファルの目を見詰める。

 「きゅう!」
 「……えーと……もしかして、ファルにくれるの……?」
 「きゅいあっ♪」

 ……ずいっ。

 今一度、クーは硝子瓶をファルの方へと押し遣った。

 折角見付けたのに、重くて運べなかったのだろう。
 風雨に怯えながら、ファルに届ける為にクーが守り通した宝物。
 ファルは、硝子の小瓶を手に取ると、大事そうに胸に抱え込んだ。

 「ありがとう……ずっと、ずっと大事にするからね」
 「きゅうっ、きゅいあーっ♪」


 晴れ渡った青空の向こうに、真っ白な雲が流れて行く。 
 南の方から吹く風がとても気持ちの良い午後。
 ファルのおうちの裏手にある背の高い樹の根元で、ファルとクーは優雅に食休みタイムの真っ最中だった。

 ひらひらと舞う蝶々を眺めていると、何だかとても眠くなって来る。

 ファルの横では、既にクーがまるでねこねこのように怠惰に熟睡している。
 鼾まで見事にクゥらしく、音調も宜しく、くぅー、くぅー、と。
 このまま、お昼寝タイムに突入しちゃうのも悪くないなぁと、ファルは大きな欠伸をした。

 向こうに見えるお花畑では、クーと同じ青い色をしたクゥが五匹、蝶々を追い掛けて跳ね回っている。
 つい先日、調教を終えたばかりのクゥ達だ。
 ファルは結局、青い色ばかりで六匹揃えにする事にしたらしい。

 みぃぃ〜〜〜っ。とっても幸せなの〜〜〜っ。

 ファルの次の目標は、クゥを増やして壷の中を<もじゃもじゃへぶん>にしてしまう事だ。
 未だにクゥの繁殖の仕組みは良く判っていないが、ずっと一緒に暮らしていれば、そのうち子供も出来るだろう。
 ……六匹とも雄か雌ばっかりじゃなければの話だけれど。

 起してしまわないように、そっとクーを抱き寄せるとファルは、クーを枕に草原にごろりと横になった。

 目の前に広がる、遠い空に向けて手を伸ばす。
 何処までも深く、青く、綺麗な空が、ファルの大切な硝子瓶の中に映って見える。
 空っぽだけど、空っぽじゃない、夢の詰まった魔法の小瓶だ。
 海を映せば海が、お花畑を映せばお花畑が、虹を映せば虹が、瓶の中に映って見える。
 どんなに遠く、手の届かない物でも、望めば其れはきっと、必ず其処にある。

 空の色は、ファルの大好きな親友の色にとても良く似ている。

 だから、ファルは時々考える。

 実は、あのもじゃもじゃ達も壷を持っていて、もしかしたら其れはこの硝子の小瓶なんじゃないだろうか、と。


                                                                   Fin.

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