「Nepheshel -霧の中の伝承歌-」

著者:皆川 新茶

★プロローグ
 ★数々の邂逅
  ★光の面影と、無邪気な悪戯屋達
   ★蒼の少女
    ★逝く人、残る人
     ★家族
      ★破滅への足音
       ★風に語らう

寄せては返す波の音が語る

栄えと、滅び、そして静寂……。

ここは全ての始まりの地。



人は、『閉ざされた島』と呼ぶ。

『プロローグ』

 あるとも知れぬ外界から遮断された、小さな島。そこにいる誰もが、その島の正式な名前を知らない。昔は誰かが知っていたのかもしれないが、それは過去へと埋没し、今となっては忘却の彼方に掻き消えてしまって、誰も知る術を持てない。
 だから、その島は『閉ざされた島』と呼ばれている。その島にたった一つある、名付けられる事すらない小さな潮風の町。
 ぼんやりとした意識の中、『彼』が目を覚ましたのは、絶えず変わり行く小さな町の道具屋、一つの部屋の中だった。

 ――――かすかにうめいて、彼はゆっくりと目を開ける。その目に映る何もかもが不安定にぼやけていて、まるでまだ夢の中にでもいるような気分にさせるが、ここはすでに現実だった。半分夢見心地のまま、彼は誰に言うともなく、虚空へぽつりと呟く。
「ここ、は……。」
 その声が、自分の内へも響いていく。彼は自分の声で、少しだけ意識を取り戻した。それと同じように、滲んだ世界が色を取り戻し始めていく。眩しい。視界に手をかざし、その眩さに目が慣れてから、彼は今まで見上げていた白い天井から別の場所へと視線を彷徨わせてみた。
 たどり着いた透明な窓には突き抜けるような蒼の空が在った。開けられた窓から入り込んでくる潮風の匂いが、心地よい。
 その風の心地よさにしばし身を委ね、彼は静かに窓辺の空を見る。何処までも続くような青い空を、輝く日の光が何処までも照らす。他に何も考えず、ただ、その穏やかな光をまとう空を彼は綺麗だと思った。どこかどう綺麗という理由などなく、ただ、純粋に。
 しばらくそうして空に見とれていた彼が突然慌てて跳ね起きたのは、意識がかなり回復してきた頃だったか。
「そうだ、俺は……っ、痛……。」
 跳ね起きたと同時に完全に意識が戻るが、頭に走った鋭い痛みで再びその意識は遠のこうとした。何とかそれには持ち堪え、彼は苦しげに額へと手を当てて、再びベッドと微風に身を預ける。目の奥で、真っ白な光がチカチカと舞っている。はて、ここに来るまでに何をしていたのか。ため息を付き、彼は心を落ち着けて、ゆっくりと記憶を辿……ろうとした。
(俺、は……?)
 ……。
 そう、何かがあったのだ、確かに。しかし、それが何であり、一体ここに来る前に自分が何に遭遇したのか。思い出そうとすれば思い出そうとするほど、その記憶は触れた途端に霧のように霧散していってしまう。えもいわれぬ焦燥感に、彼も慌てて記憶を追いかける。だが、それよりも早く、彼らは心のどこかに沈んでいってしまい、結局彼は何一つ思い出すことは出来なかった。彼にはそれがとても悲しい事であったように思えてならなかった。その理由は解らないのに、途方もない喪失感が心の虚に響いていく。大切な宝物を、失ってしまったような。
 彼は先ほどと同じように微風を頬に受けながらも、突如味わった喪失感に浸っていた。彼の感情の変化など気にも止めず、相変わらず風は穏やかに彼の頬を撫で、また窓から飛び出して空へと戻っていく。その様子は、あまりに静かだった。それこそ、耳が痛くなるほどに。
「あっ、お目覚めですか?」
 そんな彼を現実に引き戻したのは、少女の声だった。現実に戻り、まだかすかに痛む頭をいたわりながら、彼はそちらへと顔を向ける。
 そこにいたのは、ピンク色の髪のおさげに大きな青いリボンが印象的な可愛らしい少女だった。今まで自分を介抱してくれていたのだろう。少し疲れが見える。それでも彼女は優しげな瞳を向けてくれていた。それだけで心が癒されてしまいそうな、温かな微笑みと一緒に。
 ドアの向こうからやってきた彼女に、何も思い出せない自分。どういう状況なのか理解しかねながらも曖昧に頷くと、彼女は安堵の表情を浮かべた。
「君が助けてくれたのか? 君は一体……?」
 ゆっくりと起き上がり、彼は片手で未だ痛む頭を押さえながら問う。彼女はこくりと頷いて、答えた。
「私の名前はイリス。近くの海岸であなたを見つけました。」
 彼はしばし沈黙を守り、彼女が言うであろう先の言葉を待つ。彼女――イリスは一度窓に目をやってから視点を戻し、話を繋げた。
「ここでは、よくある事です。この島に流れ着く人は、誰もが記憶を失っていて、自分が何者なのか、どこから来たのか、何の目的があったのかさえ覚えていません。」
 それが一体どういう事なのか。彼にはよく解らなかったが、きっと自分と同じように理由もなく様々な思いをする――もしかしたら、自分と同じような感情を抱いた――人が、自分以外にもたくさんいるのだという事を彼はそれとなく理解した。だが、まだ頭は混乱から脱してはいない。
「ここは……?」
 彼がかろうじて紡いだ言葉にイリスは優しく答える。その目に、少しの寂しさと憂いを秘めながら。
「出ることも叶わない島……――『閉ざされた島』と呼ばれています。」
「閉ざされた、島……。」
 彼はその言葉をそのまま返し、もう一度空を見る。その果てが白く霞んで見えるのは、気のせいだろうか。まるで、今の自分の思い出のように、霧か霞に覆われてしまっているような。見れば見るほど、それはとても薄いもので、世界の果てさえも見通せそうにさえ感じる。しかし、それは叶わなかった。諦めて、彼は彼女へと視線を戻す。
「そして、ここはその島の一端にある、小さな町の道具屋です。」
 彼女はそう言って、半開きだった窓を大きく開けた。眩い太陽の光に、彼は手をかざし、目を細めた。その光に、奇妙な懐かしさを想いながら。
「あ、部屋は、自由に使ってくださいね。今は……誰も使っていない部屋ですから。」
 あ、それから、と彼女は彼の言葉を待たず、一つの背負い袋をテーブルへと置いた。きょとんとして無言の疑問を投げかける彼に、彼女は応じる。
「これ、あなたの隣に落ちていたんです。」
 確かに、その背負い袋に見覚えがないでもない。だが、それはまだ確証ではない。頭の中に、その明確な記憶は無いのだから。
「……見せてくれないか?」
 しばらく怪訝そうな顔で見つめていた彼だったが、やがて彼女にそう頼んだ。彼女はそっと袋を持ち、彼に手渡す。彼は先ほどまでまったく感じていなかった言いようのない緊張感に見舞われながらも、おそるおそる、中身を確かめた。
 中にあったのは、僅かな金と、一つの宝石、古ぼけた一冊の本、そして、鞘に入っていた見覚えのある白刃の短剣が一本。特にその何の変哲も無いような短剣から、触れてはならない何かを感じ取れる。それは、『怖い』という感情なのだろうか。否、それはむしろ『懐旧』という想いから来る気持ちの方が強い気がする。そう、懐かしい。その確かな感情に、彼はそれが自分の物であると確認し、頷いた。
 ありがとう、と一言お礼を言って、彼は微笑んだ。彼女も、それに微笑んで返す。彼はそのまま、身体の向きを彼女の方へと変えた。足の感覚はすでに取り戻していたようで、彼は何度かその足を曲げたり伸ばしたりしていたが、やがてベッドから離れようと体重を掛けた。
「あ、まだ休んでいてもいいんですよ?」
 咄嗟に、彼女が支えてくれようとする。しかし、彼はそれをやんわりと手で制した。
「いや、大丈夫。」
 その心遣いが、彼にとっては嬉しかった。だからこそ、この献身的な少女の好意に甘えるわけにはいかない。彼は深くそう思い、支えてくれようとする彼女に平気とだけ声をかけ、自力で立ち上がった。
 少し身体は重いが、別段困るほどではない。彼は早速靴を履き、背負い袋を背負って、短剣をすぐに抜けるようにベルトに差した。改めて、立って周囲を見回してみると、テーブルの他にも、鏡やタンスもあって、本当に誰も使っていないのかと思うほどに綺麗に掃除がなされていた事に気がついた。ここは、もしかしたら彼女にとって誰か大事な人の部屋だったのかもしれない、と余計な詮索をしてしまう自分を引き止めて、彼は一度息を付いた。僅かではあるが、緊張がほぐれた。
「……!」
 丁度、その時だった。すうっと心の一箇所が晴れていくのを感じたのは。その奥に潜んでいた言葉に自分が気付いたのは。
 ――――漆黒の迷宮。
(何だろう、この言葉は……)
 頭がかすかに痛む。立っていられない程ではないが、思わず手を頭にやってしまう。やや眉をひそめながらも目を閉じ、彼はその波が去っていくのを待つ事にした。
 漆黒の迷宮が何か――あるいは誰か? 否、何処か?――。今の彼に知る由はない。しかし、それは彼にとって、どうしても到達しなければならないもののように思えてならなかったのだ。頭痛が引くと共に、その衝動めいた使命感もぼんやりと輪郭を失ってはしまったが。
 それでも、彼は訊かなくてはならないと思う事までは忘れなかった。その言葉と、その先に何があるのかを。そして、何故何も知らないはずの自分がそこへ行きたがっているのかを。
 ――――。
「そうですか……。あなたも、漆黒の迷宮を目指すのですね。」
 階段を一緒に降りながら、その言葉を訊ねた時。彼の隣でイリスが少しだけ寂しげに呟いた。訊いてはいけない事だったのかもしれないと彼は突然不安になったが、彼女は首を横に振って、何も責める事をしなかった。階段はすぐに終わり、そこにあったのはカウンターと、いつか誰かの命を救うために待つ、整然と並べられた薬草や治療薬達。そのカウンターを見つめ、彼女は再び言葉を続けた。
「私は、漆黒の迷宮を目指す人のために薬草を売ってきました。人が死ぬのは、悲しいことだから……」
 彼女は意味深な言葉を呟いて、少しだけ俯く。その姿がとても痛々しくて、彼は一言でも何か掛けるべきだろうかと必死に考えた。だが、彼が何か言おうとする前に彼女は彼に向き直り、彼の目をしっかりと見つめる。彼も、その真摯な眼差しに応えて、沈黙を保ったまま彼女を見つめ返すだけに留めた。
 そうして、彼女の言葉は彼の旅のはじまりを告げる。彼も、もう何故かその覚悟は出来ていた。
「この島は、とても恐ろしいところです。みんな、どこからともなくこの島に現れて……そして消えていきます。あなたには、無事戻ってきてほしいです。待って、いますから。」
 そこまで言うと、彼女は彼の目を覗き込み、首を傾げて問い掛けた。その仕草は、先ほどとはがらりと変わった、年相応の少女そのもの可憐な笑顔で。
「えっと、貴方の名前、聞いてもいいですか?」
「え、あ、俺の名前は……。」
 一瞬、彼はうろたえた。例に漏れず、名前も覚えていなかったからだ。だが、この問いに反応するように、霞み掛かった心の奥から一つの言葉がすぐに浮かんでくる。それは、彼が彼であるための、大切な名前。それを、それだけを、彼はしっかりと覚えていた。
 ―――――――――リト。
 誰かに、そう呼ばれていた気がする。呼んでいた人が誰なのかさえ、解らないけれど。
 心の奥から響いてくる寂しい気持ちに負ける前に、彼は彼女に自分の名前を伝えた。自分が今、ここにいる証として。
「……リト。俺の名前は、リトだ。」
 自然と、彼からも笑顔がこぼれる。それは、穏やかな笑みだった。

 束ねた橙の髪が微風に揺れる。その瞳は漆黒ながら、光を浴びた瞬間に繊細な新緑の色となる。そんな稀有な瞳ををした青年……それが、『リト』だった。

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