「Nepheshel -霧の中の伝承歌-」

著者:皆川 新茶

★プロローグ
 ★数々の邂逅
  ★光の面影と、無邪気な悪戯屋達
   ★蒼の少女
    ★逝く人、残る人
     ★家族
      ★破滅への足音
       ★風に語らう

『光の面影と、無邪気な悪戯屋達』

 ドアの開く音。彼の帰還を知らせるその音の方へ、彼女はカウンターの向こうから一番の笑顔と共に手を振った。今日も無事に帰ってきてくれた。そんな安堵の想いを抱きながら。
「お帰りなさい、リトさん!」
「ああ、ただいま。今日は墓所の奥まで行けたよ」
 ぱたぱたと走ってくる彼女に、リトは一杯に詰まった背負い袋から一つの鍵を取り出し、得意げに微笑んでその日の戦績を手短に報告する。もっとも、この話題はここで尽きる事無く、食事の場まで持ち越されるわけだが。
「わあ、という事は通過儀礼突破ですね!」
「あ、そういえばそうだ。晴れて新米卒業かあ……実感湧かないな」
 お互いに笑い合って、テーブルへと向かう。料理は基本的には共同作業だが、帰りが遅かったのでイリス一人で作ってしまったようだった。それに少し残念そうな表情をするリトにとっては、せめて彼女の手伝いが一つくらい出来たならといったところであろうか。基本的に、彼は自立心旺盛の様子。イリスも、リトのその気持ちを大切にしてくれている。リトは全く彼女に頭が上がらないというのが、正直なところだ。
「今日はお魚とひれ料理の海鮮セットですよー」
「手伝えれば良かったんだけどな……」
 苦笑交じりに頬を掻き、リトは荷物を置いて椅子に座る。イリスも料理をテーブルに置き、彼と向かいの椅子にちょこんと座った。
 食卓に上っているのは、鼻をくすぐる香ばしい香草の匂いを漂わせる、美味しそうな焼き魚。それから、刺身のひれ料理。こちらも身も透き通らんばかりの新鮮さで、見ていれば自然と食欲も湧くというもの。後は赤と緑の色で食卓に花を添えるサラダが大盛り。二人同時に「いただきます」と宣言すれば、リトの方は早速食事を頬張り舌鼓を打つ。イリスはイリスで、その様子を満足そうに微笑んで見つめ、焦らず騒がず、のんびりと食べ始めた。
 それからは、とりとめもない話題がいくつか飛び交った。玄関で話した王の墓所での詳細や、王の墓所で出くわした同業者との話。今日はどんなお客さんが来て、どんな話をしたか。食事をつつきながら、和やかな雰囲気で話題は弾む。イリスは楽しそうにその話を聞いて、笑ったり、驚いたりと百面相をしている。くるくる変わるその表情は、見ていて決して飽きる事はない。
「明日はどうするんですか?」
「いや、明日は少し休むよ。この町をよく見て回ってみたいんだ」
 食事ももうすぐ終わる頃。小首を傾げて彼女が問うと、リトはしばし思案してから率直に答えた。それを聞いて、イリスがぽんと手を打つ。
「では、ほんの少しお使いを頼めますか?」
「俺に出来る事なら、だけど。それでいいなら喜んで」
 その言葉に再度にっこりと笑って、イリスは仕事の内容を要約し、リトに話す。しっかりと耳を傾けている様子を見れば、彼も断わるつもりはないらしい。今日手伝えなかった分の手伝い、と言ったところだろうか。
「簡単な仕事ですよ、ここから北の方にある骨董屋のお爺さんに届け物をしてほしいのです。引き受けてもらえますか?」
 やはりリトに断わる理由はなく。彼は二つ返事で返し、その仕事を受けた。その頃には丁度焼き魚も綺麗に平らげられており、山盛りだったサラダも忽然とその姿を消していた。それは、穏やかな語らいの時間を終える事をそれとなく二人に告げていて、二人はどちらが言うともなく、その食器を協力しながら片付け始めていた。
「リトさん、冒険者さん達とのお付き合い、慣れましたか?」
「いや、なかなか上手く馴染めなくて」
「うーん、それは大変そうですね……」
 ここでも他愛のない雑談をしながら、食器を洗い、お互いにすべき事をする。他にする事といえば、イリスは今日の収入についての記録をまとめる事、リトは道具袋に詰まった戦利品を分ける事。要らないものは生活費に姿を変えるが、今の所財政は安定している様子。そのせいか、部屋に武器や盾をいろいろ立て掛けて、リトの部屋はちょっとした戦利品のコレクションルームへと変貌していた。リトも、満足げにそれを眺める。彼にとって、それは何よりの成長の証だからだ。
 ……やがて深い夜は訪れ、月が二人に眠る事を勧める時間となった。一旦部屋から出て、お互いに今日一日の頑張りを健闘しあう。そして。
「じゃあ、お休み」
「はい、お休みなさい。明日も頑張りましょう!」
 そう言って、リトは自分の部屋へと戻ってきた。空気を換気するために、まずリトは窓を開ける事にした。窓を開けた途端、微風が部屋の中へと流れ込んでくる。初めて感じた風と同じくらいに、その風は心地よいものだった。
 空を柔らかく照らす月光を仰ぐ、一人きりの時間。この時間だけは、彼だけのもの。彼は静かに、ただ窓辺に寄りかかり、考え事にふける。それは、限りなく孤独な時間。彼が見上げるのは、夜空に光り輝く下弦の月か、はたまた深遠の色をした夜の帳か。そのどちらにも、彼は懐旧の想いを抱いているのだろう。どこか遠い目をして、ただ空を見つめている。
 やがて、遠いようで近い酒場の喧騒も彼の耳の中から去り、いよいよ彼の物思いを止めるものは何一つなくなった。まるで夢を見ているかのような瞳で、彼は静寂(しじま)の果てを見やる。太陽の下に見えたあの霞は、今は漆黒の闇の向こう。見える事はない。しかし、彼はそこから目を離せなかった。
「……」
 徐々に、全てが遠ざかっていく。
 彼は、起きながらにして一つの夢を見た。
 自分の目の前に、金色の女性が立っている。その目は怒りに満ちていて、同時にとてつもない悲しみを秘めていた。夢の中で、自分は彼女同様に悲しんで、懸命に彼女を止めようとしていたが、この夢の中、静止の声に彼女が振り向いてくれることは一度もなかった。空を振り仰ぎ、彼女はあらん限りの声で叫ぶ。おそらく、それは人が触れてはならない神の言葉。言葉は形となり、やがて螺旋に逆巻く光となり、世界に広がっていく。人々の断末魔も、許しを乞う声も掻き消して。そう、あれは……。
 ――――全てを薙ぎ払い、目を灼く眩い光。
「――――ッ!!」
 思わず息を飲んだ瞬間、彼は現実に引き戻された。えぐるような胸の痛み。力なく、彼は窓から手を離し、その場にどさっと座り込んだ。頭が重く痺れて、悲鳴を上げている。押し潰されそうな息苦しさ。冷汗が背筋を流れ落ちる。その場に倒れ込みそうになるのを堪えて、彼はベッドまで何とか歩き、そのまま突っ伏す。
 苦痛にうめく間もなく、彼は言い知れぬ暗い闇へと落ち、夢さえも見ないほどに深い眠りへと沈んだ……。

 ――――。
「……」
 次に目を開けた時は、翌朝だった。外を見やれば、朝霧が晴れてきた頃。耳を澄ませれば、なにやら一階が騒がしい。聞き慣れた声が、二つか三つほどしている。その内の一人は、言わずもがなだが、残る二人は……。
「もう誰か薬草買いに来てるのか……?」
 むくりと起き上がり、すぐ普段着に着替え、あくびをかみ殺しながらリトは階段を降りる。近づけば近づくほど、その声には聞き覚えがあるものだと解る。しかも、どうやら薬草を買いに来たというわけでもなさそうだという事も。何処でと言われれば、酒場でとしか答えられないが、その姿を確認する前にリトはその正体を見切った。
「おはようございます、よく眠れましたか?」
 もちろん、一人はイリスだった。そして、もう一人。こんな早朝から薬草買わずに遊びに来た若干非常識な人物は、酒場を見回しても一人しか考え付かなかった。
「あ、リトにーちゃんだ!おっはよー!」
 リトにとっては想像通り。にぱっと破顔して最初に挨拶をしたのは、冒険者内のムードメーカー兼ね屈指のトラブルメーカーと名高い、あの青髪の少年だった。
「やっぱりグレッグか……」
「やっぱりって何さ。それから、人はボクをぐーちゃん、ないしはぐー坊と呼ぶから覚えておいてよね!でも、今日は後もう一人お客さん!」
 でも、とグレッグが言ったと同時に、もう一人店の中へと入って来た。もちろん、その顔にもリトは見覚えがあった。酒場で山盛りひれ料理をあっさりと平らげた、元気そうな茶髪の女性だ。
「おはよ、リト君!」
「あ、グレイスさんも一緒なのか」
「えへへ、ぐーちゃんと一緒におつかい!ミルコは家でいびきかいてるから放って来ちゃった」
 そこはかとなく雰囲気の似た二人が並ぶと、その周囲の雰囲気も一気に明るくなる。
「あれ、ぐーちゃん!指どうしたの、真っ黒!」
「グレイスねーちゃん、それは外で話すよ。じゃ、予告通り!リトにーちゃん、お借りしまーす!」
 朝食も取れないまま、何が何だか解らないうちに、リトはあっさりと二人に誘拐されることとなった。ちなみにイリスが、リトに朝食と荷物を渡し、にこやかに「行ってらっしゃい」の一言で、無意識にリトの困惑の眼差しを斬り捨てたのは、ある意味言うまでもない事かもしれない。イリスに見送られ、リトは店の外へと半ば引きずり出されるような形で出る事となった。
 外は昨日と同じ、過ごしやすい程度の風が吹いていた。それに、快晴とまではいかないが、そこそこの晴れ模様。今日は陽射しに体力を奪われず行動出来そうな、いい日だった。朝日を浴びれば、彼の目も一気に覚める。大きく伸びをして、リトは改めて二人の方を見た。
「で、どうしたの、その手」
 外に出るや否や、早速グレイスはグレッグに疑問をぶつける。リトも声につられて彼の手を見てみると、その右手の指先は真っ黒だった。よくよく見ると、どうやらその黒さの原因は顔料らしい。口には出さないが、彼も少し気になってか、会話に聞き耳を立てる。
「大丈夫、ちょっと落書きしただけ」
「落書きって、もしかしてタルおじさんに?」
 グレイスの割り出した答えはどうやら正しいらしい。悪戯っぽい笑顔を浮かべ、グレッグは一度大きく頷いた。
「でも平気だよ、まぶたに目書いて、あと……ちょっと丁寧に鼻毛書いただけだし」
「あはははっ、ぐーちゃんってばついにやっちゃったんだ、念願の落書き!」
 それだけで笑うグレイスに、得意げな顔で彼は答え、さらに言葉を付け加える。
「まあね。でもでも、グレイスねーちゃんは言えないよ。こないだ熱出したミルコにーちゃんの鼻に丸めてねじ込んだんでしょ、キツイ匂いの薬草」
「あちゃー、その話もう広がってたの?」
 どうやら、二人が二人とも極度の悪戯好きらしい。しかも、被害者も被害者だけに浮かばれない。リトは生暖かい苦笑いをしつつ、酒場の時のように一歩引いて傍観に回ろうとするが、この二人が相手となると、そうも行かなかった。
「あー、もう!リトにーちゃん、逃がさないぞ!」
「そうそう!それに町の中なら、ちょっと羽根伸ばしたってバチは当たらないよ、リト君!」
 一歩離れて壁を作ろうとすると、彼らは突然自分達の話題に放り込もうとするらしい。突然巻き込まれたリトは為すがまま、今度は話の聞き手となって歩いていく。彼はどちらかといえば、保護者といった雰囲気だ。しかし、そんな事などお構いなし、グレッグは戸惑うリトにびしっと指を突きつけた。
「リトにーちゃんて、精一杯やりたい事やってる? そんなに固くなってちゃ、何も出来ないでしょ!」
 その言葉にうんうんと頷いて、グレイスも背伸びし、ばしばしと自分より上背のあるリトの肩を叩く。
「笑いたい時は笑って、泣きたい時は泣いて、悔いは残さない!と、いう事でリト君、出発!」
 そう言って、グレッグはリトの手を引っ張って道端を歩き始め、グレイスはリトの背中を押した。連れて行かれる中でも、二人は悪戯話で盛り上がっている。犠牲者はもっぱらタルバインとミルコだが、場合によっては他の面々も被害を受けるらしい。とはいっても、それはほんの些細なことで、決して過度にはならないよう注意だけはしているようだった。
 ……確かに二人の行動ははた迷惑な所がある事はリトも思っている。だが、それだけではない。それがきっと常に生きるか死ぬかの境を渡り歩く冒険者の空気を和らげているのだろうな、と彼はいつの間にかそう思いながら話を聞いていた。自然に穏やかな笑みが頬に刻まれる。心が特に温かいのだ、この二人は。近づけば、例え心が凍り付いていたとしても融かされてしまうほどに。逃げようとしても、逃げ切れない、逃がさない。そんな雰囲気を常に漂わせている。容赦なく周りを巻き込んで、楽しい時間を振りまく二人を、リトは何処か羨ましいなと感じながら、二人に連れて行かれるまま、進んでいく。
 その先にあるのは、ゲート一面に草の生えた広場。それこそ、かくれんぼには向いていないが、鬼ごっこをするには最適な。
「ようし、気分転換に一緒に遊ぶぞ、リトにーちゃん!鬼ごっこで勝負だ!」
 やはり、彼らの考えはそうだった。
「ふっふっふ、ぐーちゃんから逃げられるのは兄貴さんとビンちゃんくらいなんだから、覚悟した方がいいぞ、リト君!」
「うっ、イアソン兄ぃは問答無用で論外だよ!うーむ、ビンセントにーちゃんは捕まえられなかったんだよなあ、すっごく足速くて。速さにかけては兄貴よりすごいかもね」
 その分力ないけど、とまたも余計な一言を付け加え、グレッグはリトの是非を問わず、早速準備運動を始めた。どうやら、冗談ではなく本当に鬼ごっこをするらしい。てっきり捕まえ役をやらされると思っていたリトは、若干拍子抜けである。何しろ、「鬼」をすると言い張る相手は十二、三歳の子どもなのだから。誰であっても、余裕だと思う過信もするというものだ。
「リトにーちゃん、ご飯食べとく?」
 その傍ら、グレッグは自分の事などまったく気にせず、食事をとっていないリトに心配までする余裕があるようだ。今のところグレイスは木陰に座って、二人の行く末を見守るに留めている。直接参加はせず、応援に徹する気でいるらしい。
「いや、いいよ。今食べると横っ腹痛くなるから……」
 と、言いつつリトも屈伸や跳躍をして、準備を整えている。拒否できないと悟ったか、それとも一緒に楽しもうと決意したのか。頬に少し笑みが見えている所を見ると、どうも後者らしい。その顔を見るグレイスとグレッグにも、似たような笑顔がこぼれる。
「それじゃ、ボクがリトにーちゃんを捕まえたらおしまいだからね」
 単純明快なルールに、リトも頷く。
「じゃあ、十数えるからその間に広場の好きな場所まで逃げてねー」
 そう言われても、と視線を巡らせ、リトはまずゲートの方へと向かった。ゆっくりと、しかし確実にグレッグは数を数えていく。1,2,3。リトはゲートの向こうまで、たったと走っていく。4,5,6。この頃には、広場の向こう側。7,8,9。広場を出ないギリギリの場所で、リトは留まっている。そして。
「じゅう!」
 数えたと同時に全力疾走。リトも向かってくる彼とは反対側に逃げ始める。だが、まだ距離的に余裕があるせいか、その足は遅い。逆に、いきなり全力疾走のグレッグは驚くべき速さで広場を駆ける。その間が予想以上に早く縮まってきた事にリトも焦ったか、速度を上げた。
「ぐーちゃん、ふぁいと!リト君、頑張ってねー」
 じりじりとその距離は縮まる。まったくもって、リトにしては予想だにしていない素早さだった。おまけに小柄ゆえの身軽さも生かしていて、背の低いゲートなど軽やかに飛び越え、見事にトンボ切って着地。体勢を崩す事無く、リトに向けて猛然と走り出す。その距離は、あっと言う間に詰められた。
(やっぱり、グレッグも冒険者だ……!)
 リトは心の中で過信していた自分を叱咤し、とっさの判断で捕獲の手を免れた。向こうは余裕たっぷりの笑みで、素早く次の行動に移っている。さすがに朝食抜き、寝起きが堪えたか、リトは一歩判断が遅れる。それでも行動は十分機敏で、相手の手をひらりとかわす。むっとした顔で、彼はさらに踏み込んで掴もうとするが、リトはさらに一歩飛び退って回避する。一歩下がっても大丈夫かと横を見ようリトは思った……が、それが結果として、彼の捕まる原因となった。グレッグを見れば、すでに思い切った行動に移っていたのだから。もはや、避けられない。
「リトにーちゃん、げっと!」
 どふっ、と勢い良く当て身を喰らい、リトは驚きながらもんどりうって倒れる。いくら子どもの体重とはいえ、全力で体当たりを受ければ、いくらリトでも立ってはいられない。二人とも、広場の草原にどさりと転がる。が、すぐグレッグはそのままごろごろと転がって、横で仰向けになった。いかにもその顔は渋面一杯で、不服そうだ。うー、と唸りながら、口をへの字に曲げている。
「シアねーちゃんより時間掛かっちゃった。ご飯食べてないし、寝起きだし、もっと早く捕まえられると思ったのにー」
 一人ごちた、それが彼の不満の理由らしい。随分甘く見られていたんだなと苦笑いしつつ、さすがのリトも反論する。
「それは正々堂々じゃないな、グレッグ」
「やっぱり? じゃ、今度正々堂々やってよね、リトにーちゃん」
 反論に、彼は悪意の無い笑顔で応える。息の上がっているリトと比べると、彼は大して疲れていないようだった。これには大したものだと、リトも感服せざるを得ない。その顔を見てか、彼は先ほどの不服など何処吹く風、思い切り得意げに破顔した。
 グレイスも近くに来て、グレッグの隣に座る。しばらく三人とも黙って微風を受け、空を見上げていたようだったが、その中で真っ先に口を開いたのはグレッグだった。ねえ、と呼びかけられて、リトはそちらを向く。グレイスも、一緒にそちらを向いた。
「あのさ、リトにーちゃん。ボク、だけじゃなくてグレイスねーちゃんもなんだけど。酒場で初めて見た時に、なんでリトにーちゃん、あんな怖い顔してたのかなって思ったんだ。良い人だってイリスねーちゃんから聞いててね、ボクら、リトにーちゃんがどんな人なのかなってわくわくしてたんだよ」
「付き合いの良いお兄ちゃんだよね、ぐーちゃんとしては」
 グレイスの相槌に、ますます彼の顔は笑顔そのものになる。
「うん、やっぱいい兄ちゃんだった!後はもうちょっと気楽なら最高!そうでないと声かけづらいし、イタズラ出来ないもん!」
「うわ、それは勘弁してくれるか? 寝ている間に顔に何か書かれたら嫌だし」 
 「しないしない」と元気良く首を横に振るグレッグ。果たして信用していいものやらという疑問も浮かぶが、屈託のない笑顔を見ると仕方ないかとも思ってしまう。一方で、グレイスは近づきつつじっとリトの顔を覗き込んでいたが、やがて彼の目を見ると同時に手を伸ばし、突然その右頬をぐいっと摘んだ。痛てっと言う彼の言葉など聞かず、グレイスはびしりと言葉を突きつけた。
「リト君、一歩引く癖があるでしょ!それじゃ人生楽しめないよ。いっそ相手を襲う気持ちが大事!やりたきゃ、やれ!」
「うーん、そこまでしなくていいからさ、とにかく自分も楽しもうって考えなよ。そうでないと、とても保たないからね、冒険者生活」
 何故か、リトはその言葉が二人の年に似合わないとても重たいもののように聞こえた。一瞬幻聴かとも思ったが、そうではない。よくよく考えれば、グレイスもグレッグも、自分よりも冒険者歴の長い冒険者なのだ。彼がそれに気付くまで、そう時間はかからなかった。
「……自分で楽しもう、か。俺にも出来るかな?」
 リトは起き上がって、転がるグレッグを横目で見、グレイスの顔を見上げた。二人は、同時に答えてくれた。グレイスは握り締めた拳に親指を立てて、グレッグは跳ね起きながら。
「出来る出来る、リト君には多分その素質が十分にある!」
「そうそう、ここはみんなの家なんだから、もっと気楽にね!これだけ、リトにーちゃんに伝えたかったんだ、ボクら!」
 リトも吹っ切れたか、一緒に笑った。三人は、一斉に笑う。……だが、しかし。平和というものは決して長続きするものではない。今回もまた、そうだった。
「お前は伸ばしすぎだがな……」
 背後から聞こえた図太い声に、グレッグの肩がびくりと震えた。目は丸く見開かれ、まるで調子の悪いブリキ人形のように、彼はぎこちなく背後へと首を動かした。無論、その先にいたのは、通称、彼の保護者、いかめしい鎧に身を包んだ天を突く大男。この大男の姿を確認した途端、グレッグは素っ頓狂な声を上げて飛び退った。
「え、あ、わっ、た、タルバイン!うわ、目も鼻毛もまだ……」
 が、一言余計なのが彼らしいところ。頭一つ分上にあるその顔――特に鼻の辺り――を見上げた途端、グレイスはもちろんのこと、リトまでそのあまりの酷さと見事さに吹き出しそうになるが、二人とも肩を震わせるだけで何とか堪える。グレッグはと言えば、一歩後ずさり。
「あのな、今しがた帰って来たイアソンに散々爆笑された挙句、大人しいシアやポロスにまで笑われたんだぞ、こっちは……」
 彼は情けなさそうにいままでの苦労といきさつを語るが、その声は明らかに悲しみではなく怒りで震えている。これにはさすがに命の危機を察したか、グレッグはさらに一歩後退する。が、あいにくとこの少年の口は減らない。
「むー、気付かないタルバインだって悪いじゃんかー」
 この一言で、彼の運命は決定した。頭の頂上から火山が噴火しているかのように湯気を出し、顔を真っ赤にしながら、タルバインは見かけに寄らない素早い動作でグレッグの首根っこをむんずと掴み上げ、その目前で怒りに燃えた声で吼えた。ぎゅっと耳を塞いでも、防げないほどの大声で。
「じゃかましいッ!!今日と言う今日は覚悟しておけ、グレッグ!その根性にヤキを入れてくれる!」
「うぎゃー、それじゃ、リトにーちゃん、グレイスねーちゃん、お元気……でぇっ、痛い、痛いーっ!」
 ごつんと一撃、げんこつ。案の定、彼の頭から酒場で見かけた大きなたんこぶが生える。呆気に取られている二人にタルバインは深々と一礼すると、その少年を片手にぶら下げたまま歩き出した。改めてみると、まるで地響きでも起こしそうな歩き方だ。背中を見れば、まるで山が動き出したような迫力だった。
「ナインにきっちり油を絞ってもらうからな!」
「え、アネゴ!? わー、それだけは勘弁して、やめて、うわあ、ごめんなさいー!」
 大声でそう宣言するタルバインからその名前を聞いた途端、彼の顔色がさっと変わるが、もはや後の祭りだった。こうなると、もうリトもグレイスも傍観する以外にする事がない。じたばたともがくグレッグの言葉には耳も貸さず、そのまま彼はずかずかと大股で酒場へと運んでいった。それを、彼と彼女は見送るほか無かった。否、他に何をしろというのか。
 しばらく、二人は黙って彼の行く末を案じていたが、グレイスが先に我に返り、一言発言したことで凍った時間は動き出した。
「うー、ぐーちゃん連れていかれちゃったぁ」
 残念、と呟いて、彼女は今だ呆然としているリトに向けて、突然話題を振った。
「リト君、もうすぐミルコが海岸洞穴に行くんだよ。美味しい食材と綺麗なお宝を探しに!」
「え、かいがん、どうけつ?」
 ようやく現実へと戻ってきて、その言葉をおうむ返しにした彼に、少し興奮気味の彼女は、取れそうなほどに首を縦に振ってから、話を続ける。
「そう、海岸洞穴!そこには巨大イカとか人魚とかがいるけれど、その奥には魔神が眠っているんだって噂。海岸もすっごく綺麗なんだって!」
「えっと、あの……魔神って……?」
 先ほど以上に全く聞きなれない言葉を聞いて、困ったように再びリトが問う。すると、先ほどまではしゃいでいたグレイスは、しばしきょとんとしてから、一変、にんまりと笑んだ。
「う? リト君まだ知らなかったっけ、魔神の事。じゃあ、兄貴さんに出番を奪われる前に、このグレイスおねーさんが教えてしんぜよー!」
 えっへんと胸を張り、彼女はリトに早速「魔神」についての講義を始めた。
 グレイス曰く。――魔神。それは人の願いによって生まれた、人ならざる超常の力を振るう者達。彼ら彼女らは傷ついても死ぬ事は決してなく、よほどの事がない限り、半永久的に悠久を生き続けるという。そして、彼ら彼女らは大抵壺の中で、いつか喚んでくれる「主」を待ち続けているという。何日も、何ヶ月も、何年も、もしかしたら何百年、何千年と、途方もない時間を。その中には何らかの理由で暴走し、魔物に身を落としたという魔神もいるとの事。
「それぞれの実力は文献で見ている限りピンキリみたい。神様として崇められた魔神もいるみたいだし、強くなくて知能もない魔神もいるんだって。でも、彼らは全て、人の願いから生まれたんだって。これはポロスの受け売りだけど」
 へえ、と感心して相槌を打ちながら、しばらくリトは先ほどまでの言葉を自分なりに消化する事に専念する。しかし、それには全く時間は掛からなかった。まるで、前々から知っていたかのように、彼はあっさりとその知識を自分のものとしたようで、神妙に頷いて応じたのだ。
「もし、協力を仰げたなら、旅も楽になると思うけど……ちょっと怖いかな、あたしは。兄貴さんに言ったら笑われちゃうと思うけど」
 あらかた話をまとめ終わったリトがグレイスを再度見ると、彼女はため息を付いて苦笑いをしていた。寂しげな感情と憂いを垣間見せる目で。それは、未知のものに思いを馳せる、様々な感情の入り混じった瞳だった。
「リト君も、一度行ってみるといいかもね。あたしとミルコみたいに、素敵な出会いがあるかも、なんて」
 言ってから、くすくすと照れ臭そうに笑って、彼女はばしっと音を立ててリトの両肩に手を置いた。驚くリトに向けたその顔に、無邪気な満面の笑みを浮かべて。
「のろけ話まで付き合ってくれてありがと。今から思いっきりミルコと遊ばなきゃ!じゃ、リト君、頑張ってねー!」
 ぶんぶんと手を振って、グレイスは愛すべき相棒のいる場所へと走り出す。リトも、手を振って見送る。この調子だと、ミルコは休ませてもらえそうにない。ほんの少しだけ、そんなことを考えながら。
(……さてと、イリスから頼まれた仕事をしなきゃな)
 台風一過。いよいよ自分の仕事だと、リトは改めて周囲を見回し、骨董店へと急ぐ。
 ここは決して大きくは無いけれど、潮風の匂いのする平和な町。立ち並ぶ家は似ているようでどれも一つ一つ違って、それぞれの個性がある。雲の間から差し込む日の光が反射して、屋根や白い壁が淡くきらめく。その壁の色は一方で、何処か儚げな印象を与える。そんな事はないはずなのに、触れようとしたら自分の記憶のように消えてしまいそうな。この町は今、ベッドから見た光景とはまた違った一面を彼に見せていた。
「肩の力を抜け、か……」
 風の吐息が、彼の頬を撫でて駆け抜ける。深呼吸をすれば、とても懐かしく、優しい香りがした。

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